2013年1月8日火曜日

形の冒険

ふと思い出す。遠い記憶シークエンス。拙mixi日記2008年09月10日10:47をコピペ。

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https://labaq.com/archives/51094250.html 

自然が象る形は、普遍(universality)と多様(diversity)と同様、https://mixi.jp/view_diary.pl?id=923010731&owner_id=3300442 私の関心の一つ。 

物質から生物まで自然が象る形には規則性が存在している。このことは、逆に人間の脳が規則性を以って世界を認識することに他ならない。驚きなのは、擬態など、動物と植物が偶然とはいえ姿形が似てしまうことがあるということ。これも自然の物理化学的性質に他ならない。 

ちょうどいい機会ということで、過去の日記をまとめてみた。 

フォト 雪の結晶ギャラリー フォト
https://www1.odn.ne.jp/snow-crystals/gallaly.html 

()雪の花の謎は解けるか 
https://www1.odn.ne.jp/kentaurus/snow.htm 
↑via (2006年12月22日)雪は天からの手紙 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=298904407&owner_id=3300442 

()「形の冒険」P49 
対称性は人間を魅惑すると同時に拒絶する。対称は完成であると同時に死であるからだ。数学はあるものを魅了し、あるものを退ける。なぜならそれは、論理的思考に必要な二つの能力--確かな論理体系を構築する能力と、個人の人格にかかわる問題を回避する能力--を象徴的に示しているからだ。 

成長する草木は人を惹きつける。実った麦畑も同様である。猛り狂う虎は威風堂々としているが、恐ろしい。満天の星は心を揺さぶる。いずこであれ秩序と無秩序、平衡と両極性、画一と対照との相互作用に立ち会ったとき、われわれはその内なる響きあいに目を開かれる。 

こうした感動の存在自体、いっさいの感傷を抜きにして、人間と宇宙とが一体であることの証しにほかならない。宇宙は人間にとって好意的でも敵対的でもない--それは人間の生命同様、両義的なものなのだ。 

この両義性の原因のひとつは、秩序と無秩序という二面性にある。自然も人間も、ともに秩序へ向かう傾向をもつ。したがって人間の原初的な衝動は、秩序や対称性を積極的に受け入れようとする。しかし、次に人間は、すべてが秩序と対称性一色に塗りつぶされたのを目の当たりにして、そこには生命は存在し得ないことを悟る。対称性の志向が理想へと向かうことと解釈されるなら、それは死の希求にほかならない。 

↑via (2006年12月25日)感情をよび起すもの (リンク切れ修正P48,50

()「生命とは何か」P141 
そもそも秩序正しい事象を生み出すことのできる「仕掛け」には、二通りの異なるものがあるように思われます。すなわちその一つは「統計的な仕掛け」であって、これは「無秩序から秩序」を生み出すものです。 

もう一つの新しいものは「秩序から秩序」を生み出すものです。先入観をもたない人には、第二の原理の方がずっと単純でずっと考えやすいよう思われましょう。確かにそのとおりです。 

↑via (2006年12月24日)秩序性を生み出す二つの道 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=300248086&owner_id=3300442 

()「選択なしの進化」P64  
形態と機能は初期の進化レベルでの物理化学的および無機質的な特徴から生じた。つまり、形態と機能は遺伝子や染色体によって作られたのではなかった。さらに、現在の生物の世界においても、形態と機能は遺伝子や染色体に第一義的に依存しているわけでもない。 

明らかに遺伝子と染色体は形態と機能に影響を与えており、それは遺伝の実験で明確に示される。しかしながら、このことは遺伝子が形態と機能の形式過程の起源に当たるということを意味しない。 

遺伝子と染色体は創造しない。 

それらの介在は重要であるが、それは二次的なレベルにすぎず、ある定まった形態と機能の枠内においていかなる変異体が固定されるかを決定しているだけである。遺伝子と染色体の役割はおもに、一連の有限個の組み合わせから生じた一状態を固定するものである。 

P64 ダーウィニズムやネオ・ダーウィニズムにとって変異は進化の主たる構成要素である。形態や機能の不変性は遺伝という概念のもとに属するとみなされている。遺伝の概念が進化の概念とは別のものとして作り上げられた理由はここにある。さらに、変異はランダムにどんな方向にも起こるものと考えられている。 

パタンや構造が不変であることの進化における重要性は、発生学者、解剖学者あるいは古生物学者たちにはつねに強調され続けたが、現代進化論における総合学説の擁護者たちはそれを無視し、変異を強調してきた。 

進化において基本的だと思われることは、いままで第一義的に重要であると考えられていたのとは逆の過程である。もっとも重要なのは不変性を維持する基礎的構造である。というのはそれはどんな型の変異が起こり得るかの手掛かりを含むからである。 

↑via (2006年12月30日)選択なしの進化 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=304862421&owner_id=3300442 

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「選択なしの進化」(1988)は、ネオ・ダーウィニストの自然選択を否定する進化論で、植物や動物の形の相同性を豊富な実例(自然銅の樹枝状結晶、肺の血管の樹枝状構造とか、無機物、有機物に共通する構造)を挙げて、物理化学の言葉で書かれています。「ランダムな突然変異と自然選択」よりも「自己組織化、環境との相互作用」を強調する。著者は言う「選択は顕かに存在しているが、それは進化とは何の関係もない(P20)。本書のいくつかの考えは、パスツール、ゲーテ、アリストテレスにさかのぼることができる(P25)」。私好みなのですが、この本によるとこうあります。必ずしも検証されたというわけではなく、著者の推測も入ってます。 

()「選択なしの進化」P172 
 昆虫は他の動物と同じく、そのゲノム内に、植物の祖先から受け継いだ数多くの遺伝子を含む。これらは、植物と動物とが大昔に分離する前に生じた。これらの遺伝子のうちのいくつかは、昆虫においては動物の表現型に固有の遺伝子に取ってかわられ、普通は発現されないのであろう。しかし、ある種の分子的な経路で、無機物と祖先である植物の遺伝子が共同して、昆虫に葉のパタンを作るのかもしれない。(中略) 

ランの生物学に関する書物には、多くのナチュラリストたちが観察し、当惑ぎみに認知した事態についての記述がある。この驚きの原因は、昆虫がある属のランと実際に交尾するという観察にある。この現象はいくつかの要素の結果である。オフィリス属のOphrys insectiferaとOphrys apiferaの花の形態と色彩がキスジジガバチの近縁種、ゴリテスgorytes属(argogorytes)のハチに類似している。この花はこの属のハチの雄を花に引きつける匂いのする化学物質(フェロモン)を分泌する。 

このハチの雄は雌より数週間早く生まれるので、この期間交尾する相手がいないのである。それで孤独な雄はランの花にやって来て、それと交尾しようとするのである。その行動は、雄が花をパートナーの雌であると判断するような花の形、色、匂いによって引き起こされる(it1127>たぶんジョークだと思う。ハチの生態よく知らないが、特別な時期だけハチの交尾が行なわれるんじゃなかったっけ?それも特別なハチだけ。じゃあ、ハチのオナニーか)。この性的な活動の間に、その花の花粉はハチの頭部に付着する(it1127>関連。https://www.shikakunavi.net/kids/rika/data/syokubutu/syokubutu_bikkuri.htm)。(中略) 

植物と動物が、もしも無関係な分子システムで構成されていたとしたら、数十億年かかっても、選択は彼らを似通うように作ることはできなかっただろう、ということが今日では明らかである。ランと昆虫の形態的、生理的、機能的な類似は、物理化学的な同型性の必然的な結果として生じる。(中略) 

同型性によって判明したのは、その中に含まれている基本的な過程はまったく無関係というわけではないということと、共通の分子あるいは何らかの類似性の性質を持つ分子のどちらかが類似形態の基本にあるということである。 

()外観の共通性が物理化学的な共通性に還元できるという意味で、思いだされるのが、シマウマなど哺乳動物やゼブラフィッシュなどの魚類などの縞模様だ。チューリング波の理論が、どうやら、実証される目処がついたらしい。 
https://www.sci.nagoya-u.ac.jp/kouhou/07/p6.html 

↑via (2006年12月28日)ランの花に交尾するハチ そして、チューリング波。 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=303885638&owner_id=3300442 

(2006年12月25日)「かたち」と「ちから」 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=301224652&owner_id=3300442 
(2006年12月25日)ゾウの耳はなぜ大きい? 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=301078378&owner_id=3300442 
(2006年12月24日)プロセス感覚とリズム感覚 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=300500424&owner_id=3300442 

(2006年12月15日)「死」と「性」の自覚は表裏一体 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=292984163&owner_id=3300442 
(2008年01月09日)パワー、セックス、自殺 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=679364157&owner_id=3300442 
(2006年12月15日)有性生殖はなぜ必要なのか 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=292955383&owner_id=3300442 
(2006年12月13日)>広葉樹にそっくりな何とかって虫 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=291332712&owner_id=3300442 
(2006年12月13日)乏しい「5感」の世界から、豊饒の「12感覚」の世界へ 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=291153014&owner_id=3300442 
(2006年12月10日)三木さんは「ラセン」の構造を内向性と外向性から 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=288638120&owner_id=3300442 
(2006年12月04日)脳が「生きがい」を感じるとき 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=284010173&owner_id=3300442 

()分子のかたち展https://tinyurl.com/5pnyjo https://www.bk08.org/


この稲光なら安心して見てられる! 形の冒険2

カミナリが怖いのは稲光ではなく大音響だということが判明!いまさらですがwww 

テスラコイルで音楽を奏でる  
https://wiredvision.jp/news/200809/2008090920.html 

うん、これなら安心だ!きれいだな~\(^o^)/ 

気になるのは、この閃光の形(かたち)。稲光に限らず、自然界には同型異質の産物が多々あります。構成物質は違うのに、形が同じというのは、何がそうさせているのか!?興味は尽きない。ということで、前回https://mixi.jp/view_diary.pl?id=928870494&owner_id=3300442につづき、形の冒険! 

()「選択なき進化」P156 植物と無機物の同型性 

自然銅-海藻の体制 
電気放電-根の断面 
水の結晶-シダの若枝 
孔雀石-幹の断面 
自然金-シダの葉 
アラレ石-花の断面 
硬石膏-スイレンの花 
疑孔雀石-果実 
方解石-果実の表面 

()「選択なき進化」P166 動物と無機物の同型性 

灯油磁鉄鉱-ヒト脳のしわ 
硫化亜鉛-ヒト頭蓋の縫合線 
自然金-動物の骨格 
水の結晶-鳥の羽 
食塩-哺乳類センザンコウの鱗 
緑泥石の結晶-羊の角 
アラレ石の結晶-ヤマアラシの刺状突起 
石膏の結晶-恐竜の装甲板 
アラレ石の結晶-シカの角 
方解石の結晶-魚の体や昆虫の眼の六角形 

順次、検索できた画像を追記の予定。蚊の化石はご愛敬ww 

フォト フォト
蚊の化石(Mosquito)               自然銅(Copper) 樹枝状の結晶 
https://tinyurl.com/5na73h            https://tinyurl.com/5scwlv 

フォト フォト  
シダの葉                       自然金(Native Gold) 樹枝状の結晶 
https://tinyurl.com/6xvnqb            https://tinyurl.com/5jt4v9

2013年1月5日土曜日

デカルトが書を捨て旅に出た後、何と言ったか!?


ふとしたきっかけ。遠い記憶シークエンスの一環。拙mixi日記2009年11月26日19:20をコピペ。

『方法序説』。いま読んでもぜんぜん違和感がない。時代や場所が違えば考え方も異なる、とはいえ、時代を場所を超えて普遍的な考えもあるのだなーと改めて思い知った次第。多種多様の物語や習慣などに共通するパターンを見出すのが構造主義なら、もしそこにデカルトの関心が向かえば構造主義者になっていたかもしれないと思わせるような文章がある。

柄谷行人は、『探究Ⅱ』で、『悲しき熱帯』という回想的スタイルが『方法序説』と類似している。レヴィ・ストロースが「あれほど遠くまで探し求めに行く真理」は、デカルトと同様に、旅や探検が見出す多様性を取り去ったところにある。そして、彼が見出す武器は、デカルトと同じく数学(構造主義)なのである。彼は、多種多様な婚姻形態や神話に対して、そこにいわば普遍的な「理性」が存することを認める。と記している。

デカルトが自然に対して数学を用いたのなら、レヴィ・ストロースは、人間の思考や習慣に数学を用いたと言える。

『方法序説』第二部より
P24 ところで私のことを言えば、もし私がただ一人の先生しかもたなかったならば、あるいはまた偉い学者たちの意見がいつの時代でも種々異なっていたのを知るに至らなかったならば、私は疑いもなく第二の種類の人間(注1)に数えられていたであろう。

しかし私は、すでに学校時代に、どんな奇妙で信じがたいことでも哲学者の誰かが既に言っているものだ、ということを知った。またその後旅に出て、我々の考えとは全く反対の考えを持つ人々も、だからといって、みな野蛮で粗野なのではなく、それらの人々の多くは、我々と同じくらいにあるいは我々以上に、理性を用いているのだ、ということを認めた。

そして同じ精神を持つ同じ人間が、幼時からフランス人またはドイツ人の間で育てられるとき、仮にずっとシナ人や人食い人種の間で生活してきた場合とは、P25 いかに異なったものになるかを考え、また我々の着物の流行においてさえ、十年前には我々の気に入り、また十年経たぬうちにもう一度我々の気に入ると思われる同じものが、今は奇妙だ滑稽だと思われることを考えた。


そして結局のところ、我々に確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにくい真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であることの方がはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことは何ら有効な証明ではないのだ、ということを知った。


こういう次第で私は、他を置いてこの人の意見をこそ取るべきだと思われる人を選ぶことができず、自分で自分を導くということを、いわば強いられたのである。

しかし私は、ただ一人闇の中を歩む者のようにゆっくりと行こう、すべて細心の注意を払おう、と決心した。そしてそうすれば、たとえ少ししか進めなくても、せめて倒れることだけは免れるだろう、と考えた。

のみならず私は、理性に導かれずに前から私の信念の中へ入り込んでいた意見のどれをも、はじめから一挙に投げ捨てようとは思わなかった。それに先立ち、まず十分な時間を費やして、自分の企てる仕事の計画を立て、自分の精神が達しうるあらゆる事物の認識に至るための、真の方法を求めようとしたのである。


追記 2018.03.06 『方法序説』P20-24、82 画像クリックでオリジナルサイズ表示

ここ好き→
P21 一私人が、一国のすべてを土台からつくりかえ、それをいったんくつがえして建て直すというようなやり方で、国を改革しようと計画することは、まことに不当なことであり、またそれほどのことでもなくとも、もろもろの学問の組織を、あるいは学校でもろもろの学問を教えるために定められている秩序を、P22 改革しようとすることすらも、一私人の計画すべきことではないであろう。

しかしながら、私がこれまで信念のうちに受け入れたすべての意見に関しては話は別であって、一度きっぱりと、それらを取り除いてしまおうと企てること、そしてそうしたうえでふたたび、よりいっそうよい意見をとり入れるなり、あるいは前と同じ意見でも一度理性の規準によって正しくととのえたうえでとり入れるなりするのが、最上の方法なのである。

そしてこの方法をとることによって私は、自分がただ古い土台の上に建てたにすぎなかった場合よりも、また幼い時に教え込まれた諸原理のみを、それが真理であるかどうか一度も吟味せずに、自分のよりどころとした場合よりも、はるかによく私の生活を導くことに成功するであろう、とかたく信じたのである。

(中略)私の計画は、私自身の考えを改革しようとつとめ、まったく私だけのものである土地の上に家を建てようとすること以上におよんだことはけっしてない。私のやったことが私には十分満足すべきものであって、ここにその模型を読者に示すとしても、だからといってそれに倣うことを人にすすめようとするものではない

P83 この機会にここで後世の人々に、私の意見だと人から聞いても、私が自身で公にしたことではければ、けっして信じないようにと、お願いしておきたい。

(注1)他人の意見に従う、謙虚な人間。

関連(tw)