2013年3月9日土曜日

1985年の記憶

遠い記憶を求めて。 拙mixi日記2008年09月20日コピペ。


今週のビジネスウィークリーは、リーマン・ブラザーズの経営破たん、メリルリンチのバンク・オブ・アメリカへの身売り、AIGへの公的資金投入、政府の緊急対策と目まぐるしく動いた1週間を振り返る。そして次には何が待っているのか?ホリコキャピタルマネジメントの堀古英司氏は、「アメリカから世界への不況の輸出」と話す。http://jp.reuters.com/news/video?videoChannel=201&refresh=true 

それはそれとして、○○さんに教えて貰った、松岡正剛の書評が面白かった!かんべえの不規則発言でおなじみの、吉崎達彦「1985年」(個人的には、ジョージ・オーウェル「1984」を下敷きにした1984スーパーボールでのマッキントッシュ広告を思い出すhttp://maccm.net/1980/macintosh.html)の書評。 

1985といえば、私にとっては最悪の時期、己の精神に翻弄されて七転八倒、世間で何が起こっていたか、リアルタイムではほとんど記憶にない。そんななか、本を読み始めたものこの時期。「老子と現代物理学との対話」をはじめ、「タオ自然学」などのニューサイエンスもの、工作舎を通じて松岡正剛の名前と出逢ったのもこのころ。特に当時置かれた自分の立場と「負の思想」が合致して(とはいうものの当時はそういう視点では捉えていなかったのであるがww)大いに共感したものだった。「情報の歴史」は大事に取ってある。フォト 

ま、そんな思い出に浸りながら、読んだ。自分史を振り返るのにもよい文章だった! 

(2008年9月18日)『1985年』吉崎達彦 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇 
フォト フォト 

1985年に対する評価は、正反対であるが、光と影どちらをクローズアップするかによって違ってくるのだろう。また、何を素材に選ぶかによって、出来上がってくる料理も風味もまた違ってくるのだろうなと、まあ、テキトウww 


フォト フォト 
                            (拡大)http://tinyurl.com/3tkblt 

RAM 5MB以上、HardDisc最低3MB空きエリアが必要ってのがすごいっ!ww 

【関連】alice - Macな生活 
http://www.yossie.jp/mac_life/alice.html

2013年2月2日土曜日

この世界について最も理解できないことは、それが理解できるということである

遠い記憶を求めてシークエンス。拙mixi日記2008年07月24日コピペ。

(メモ)『身体の文学史』(養老孟司)P8 より 

シーラカンスから人に至るまで、すでに5億年が経過している。なぜそれが、一時間で読める「物語」になるのか。(中略)進化を含め、歴史を客観的事実の連続として記載すれば、作業量は無限になってしまう。全地球にわたる、5億年の歴史を記述するには、5億年以上が必要であろう。(中略)歴史はつねに主観、すなわち脳の機能である。数億年なり数千年なりを、数時間の記述にまとめてしまう。(中略)その根拠はこの際どうでもよろしい。それが可能であると、脳は信じている。(中略) 
歴史は、(中略)時空系の処理形式の一つである。その形式を、昔から「物語」と呼ぶのであろう。だから、歴史は神話からはじまる。 
P57 哲学者のポパーは、世界を三つに分ける。世界1は、唯物論的、客観的な物質世界である。世界2は、他人にうかがうことのできない、個人の内的世界である。世界3は、哲学や科学のように、共通普遍性を持った、心の世界である。 
世界3とは、近世以来のこの国の伝統では、むしろ社会的自我とすべきであろう。学問の普遍性、芸術の普遍性それ自体は、唯一絶対の神不在のこの国では、意味を持っていない。普遍性とはすなわち、社会的普遍性、言ってみれば多数決であり、制度である。それは「共有されうる」からである。そこにむしろ、「共同幻想論」の源があろう。 

                  (ref.)知の統合 http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/2ndPrism.htm 

(メモ)『生命の塵』(ド・デューヴ)P409 より、 

世界1は「物理的実体からなる宇宙」である。それは物質的な宇宙から構成される。人間の脳も含めて生物はすべて世界1に属する。ポパーの世界3は、文化の世界である。それはすべての抽象的な考えと概念を、すなわち科学的理論、技術的原理、美の基準、倫理観、宗教的神話、その他人間の精神が創造したものをすべて包括する。 
人間がつくったほとんどの物、すなわち道具、機械、家屋、衣類、ディスク、絵画、彫像、その他の人工物などでは、世界3と世界1が融合している。そのような人工物は物質からできているが、世界3の刻印が刻み込まれている。世界2は、世界1と世界3の中間にある境界領域である。それは精神の領域であり、世界1に属するニューロン活動と世界3の実体との間にあって双方向変換器のような役目を果たす。(中略) 
私はむしろ、二元論的な意味合いが付きまとうこれまでの物質の定義を捨てるべきだ、というサールの警告に注目したい。二元論と一元論の板挟みから抜け出したいのなら、私たちの持っている物質の概念を拡張して、無限の可能性と、世界3へのアクセス手段とを有する人間の精神もその中に含めるべきであって、(中略)私たちの精神を、物質が特殊な形で現れ出た物とみなすべきなのである。(中略) 
物理学の歴史においては、物質の定義は繰り返し拡張をせまられてきたのであり、ときには釈然としないこともあった。重力、電磁気力、相対性、量子、原子内の強い相互作用と弱い相互作用などという概念をアリストテレス的な物質の概念に次々と追加していかねばならなかった。 
そして、この物質の定義に含める必要が出てきた最新の物質現象が生命である。 

(メモ)『機械の神話』(ルイス・マンフォード)P81 より、 

この物理的な世界は、人間の目によらなければ自身を見ることができず、人間の声によらなければ自身を語ることはできず、人間の知性によらなければ自身を知ることができない。(中略)生命のない物質と呼ばれるものは錯覚である。というより不完全な知識にもとづく今や時代遅れの表現である。というのは、「物質」の基本的な性質のうちで、(中略)長いあいだ物理学者に知られないでいた性質が一つある。すなわち、(中略) 
生きた有機体を生みだす傾向である。食事のたびにわれわれは、「生命のない」分子を生きた組織に変える。そして、この変化とともに、感覚、知覚、感情、情緒、夢、身体的反応、提案、自立活動--いっそう豊かな生命の表現--が生ずる。 
これらすべての能力は、ライプニッツが指摘したように、なお探らなければならない他の多くの可能性とともに、原初の元素の構成のなかに潜在的にあったものなのだ。人間自身の発達と自己発見は、宇宙過程の一部である。人間は、ことばの発明によって自身の存在に気づくようになった宇宙の小さくて少ないがきわめて貴重な一部であると言えよう。『機械の神話』P81 

(メモ)オピニオン 和田 昭允 氏「生命は物質の特別な状態だ -その統一的理解に向けて-」 
https://scienceportal.jst.go.jp/columns/opinion/20061016_01.html 

物質の定義が拡張してきたように、数の定義も時代とともに拡張を遂げた。 

(メモ)オイラーの公式http://tinyurl.com/2fzt4a 
フォトフォト
http://tinyurl.com/5dyccv 公式の幾何学的解釈;複素平面における半径1の円周上の点。 
θがπ(半円弧の長さ、つまり180度に対応)とき、フォト

これは、何を意味するか? 

世界1 -- 物質 -- 実数                        現実界 
世界2 -- 精神 -- 虚数                        想像界 
世界3 -- 人工物、文化、制度など -- 複素平面上の点     象徴界 

すなわち、 

(メモ)『虚数の情緒』吉田武 2000 東海大学出版会 
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1005.html 

西洋の一次元的な見方を数直線に譬えれば、東洋のそれは複素平面、大小を超越した虚数の世界にある、といえよう。
虚数の情緒とは、この意味なのである。 

それはそうと、この本、すげーです。何とかお金を工面して今年中に手に入れたい! ←2010.07入手(ブクログ
(メモ)最も重要な行為は,「人の心に火を点(つ)ける」こと 
http://www.h6.dion.ne.jp/~hsbook_a/shoseki.html 
(メモ)オイラーの贈り物 2008年4月号 | 教務エッセイ(算数) | コラム・読み物 | 日能研 
http://www.nichinoken.co.jp/column/essay/sansu/2008_m04.html 

(メモ)人は足すことをやめない 無限まで足す パート1 http://tinyurl.com/5e2mhe 
フォト
これはどういうことかというと、アキレスは亀に追いつけるということです! 
http://tinyurl.com/5dmf7c 

ゼノンのいう「アキレスが亀に追いつけない」というのは、単に 
アキレスが亀に追いつく位置より前では、絶対に追い越せない 
という、ごく当たり前のことを述べたに過ぎない 

ということだったのです! 

(メモ)人は足すことをやめない 無限まで足す パート2 http://tinyurl.com/6fa9ao 

(メモ)有限の先にはない無限 ζ(ゼータ)関数 パート3 http://tinyurl.com/6munl4 

1+2+3+…= ∞ と 1+2+3+…=-1/12、どちらも正しいのです。 

これはどういうことか? 

無限大は、-1/12であり、ゼロであり、1/120でもあるのです。さらに、計算すればもっとたくさんあります。つまり、無限とは有限でもありうる、無限と有限は繋がっている、というわけです! 

ええーっ!!!!!!!!! 

数学は答えが一つとよく言われますが、そうではない、ということです! 

どういうことかというと、 

直線上で考えると、1+2+3+…= ∞、直線すなわち実数世界を含む大きな数の世界~複素数平面~で考えると、1+2+3+…=-1/12、 

無から有、有から無、むむ、ということで、 

(メモ)たかが「虚」、されど「虚」 
http://it1127.cocolog-nifty.com/it1127/2004/07/post_1.html 
(メモ)この手があったか! - 書評 - 日本という方法 
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51082324.html 

に繋がりました。 

(メモ)有理数(rational number)、無理数(irrational number) 
有理数は整数比(分数)で表すことができる数ということで、有比数と呼ぶべきだ、という意見がある。割り切れる=合理的、割り切れない=不合理、と考えれば、有理数でいいような気もする。1/3は割り切れないじゃないかー、という意見もあるが、循環小数は割り切れるの内に入れてもよいと思われるので、いいんじゃない。 

あと、 

藤原正彦・小川洋子『世にも美しい数学入門』 
http://blog.goo.ne.jp/kisawai_2007/e/871b297b618a549d3d1c3083280a0fd1 
ゼロを発見したインド人と負数,無理数,虚数の受容に苦労した西洋人 

というのも面白そう!

2013年1月8日火曜日

形の冒険

ふと思い出す。遠い記憶シークエンス。拙mixi日記2008年09月10日10:47をコピペ。

フォト フォト
https://labaq.com/archives/51094250.html 

自然が象る形は、普遍(universality)と多様(diversity)と同様、https://mixi.jp/view_diary.pl?id=923010731&owner_id=3300442 私の関心の一つ。 

物質から生物まで自然が象る形には規則性が存在している。このことは、逆に人間の脳が規則性を以って世界を認識することに他ならない。驚きなのは、擬態など、動物と植物が偶然とはいえ姿形が似てしまうことがあるということ。これも自然の物理化学的性質に他ならない。 

ちょうどいい機会ということで、過去の日記をまとめてみた。 

フォト 雪の結晶ギャラリー フォト
https://www1.odn.ne.jp/snow-crystals/gallaly.html 

()雪の花の謎は解けるか 
https://www1.odn.ne.jp/kentaurus/snow.htm 
↑via (2006年12月22日)雪は天からの手紙 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=298904407&owner_id=3300442 

()「形の冒険」P49 
対称性は人間を魅惑すると同時に拒絶する。対称は完成であると同時に死であるからだ。数学はあるものを魅了し、あるものを退ける。なぜならそれは、論理的思考に必要な二つの能力--確かな論理体系を構築する能力と、個人の人格にかかわる問題を回避する能力--を象徴的に示しているからだ。 

成長する草木は人を惹きつける。実った麦畑も同様である。猛り狂う虎は威風堂々としているが、恐ろしい。満天の星は心を揺さぶる。いずこであれ秩序と無秩序、平衡と両極性、画一と対照との相互作用に立ち会ったとき、われわれはその内なる響きあいに目を開かれる。 

こうした感動の存在自体、いっさいの感傷を抜きにして、人間と宇宙とが一体であることの証しにほかならない。宇宙は人間にとって好意的でも敵対的でもない--それは人間の生命同様、両義的なものなのだ。 

この両義性の原因のひとつは、秩序と無秩序という二面性にある。自然も人間も、ともに秩序へ向かう傾向をもつ。したがって人間の原初的な衝動は、秩序や対称性を積極的に受け入れようとする。しかし、次に人間は、すべてが秩序と対称性一色に塗りつぶされたのを目の当たりにして、そこには生命は存在し得ないことを悟る。対称性の志向が理想へと向かうことと解釈されるなら、それは死の希求にほかならない。 

↑via (2006年12月25日)感情をよび起すもの (リンク切れ修正P48,50

()「生命とは何か」P141 
そもそも秩序正しい事象を生み出すことのできる「仕掛け」には、二通りの異なるものがあるように思われます。すなわちその一つは「統計的な仕掛け」であって、これは「無秩序から秩序」を生み出すものです。 

もう一つの新しいものは「秩序から秩序」を生み出すものです。先入観をもたない人には、第二の原理の方がずっと単純でずっと考えやすいよう思われましょう。確かにそのとおりです。 

↑via (2006年12月24日)秩序性を生み出す二つの道 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=300248086&owner_id=3300442 

()「選択なしの進化」P64  
形態と機能は初期の進化レベルでの物理化学的および無機質的な特徴から生じた。つまり、形態と機能は遺伝子や染色体によって作られたのではなかった。さらに、現在の生物の世界においても、形態と機能は遺伝子や染色体に第一義的に依存しているわけでもない。 

明らかに遺伝子と染色体は形態と機能に影響を与えており、それは遺伝の実験で明確に示される。しかしながら、このことは遺伝子が形態と機能の形式過程の起源に当たるということを意味しない。 

遺伝子と染色体は創造しない。 

それらの介在は重要であるが、それは二次的なレベルにすぎず、ある定まった形態と機能の枠内においていかなる変異体が固定されるかを決定しているだけである。遺伝子と染色体の役割はおもに、一連の有限個の組み合わせから生じた一状態を固定するものである。 

P64 ダーウィニズムやネオ・ダーウィニズムにとって変異は進化の主たる構成要素である。形態や機能の不変性は遺伝という概念のもとに属するとみなされている。遺伝の概念が進化の概念とは別のものとして作り上げられた理由はここにある。さらに、変異はランダムにどんな方向にも起こるものと考えられている。 

パタンや構造が不変であることの進化における重要性は、発生学者、解剖学者あるいは古生物学者たちにはつねに強調され続けたが、現代進化論における総合学説の擁護者たちはそれを無視し、変異を強調してきた。 

進化において基本的だと思われることは、いままで第一義的に重要であると考えられていたのとは逆の過程である。もっとも重要なのは不変性を維持する基礎的構造である。というのはそれはどんな型の変異が起こり得るかの手掛かりを含むからである。 

↑via (2006年12月30日)選択なしの進化 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=304862421&owner_id=3300442 

フォト フォト
「選択なしの進化」(1988)は、ネオ・ダーウィニストの自然選択を否定する進化論で、植物や動物の形の相同性を豊富な実例(自然銅の樹枝状結晶、肺の血管の樹枝状構造とか、無機物、有機物に共通する構造)を挙げて、物理化学の言葉で書かれています。「ランダムな突然変異と自然選択」よりも「自己組織化、環境との相互作用」を強調する。著者は言う「選択は顕かに存在しているが、それは進化とは何の関係もない(P20)。本書のいくつかの考えは、パスツール、ゲーテ、アリストテレスにさかのぼることができる(P25)」。私好みなのですが、この本によるとこうあります。必ずしも検証されたというわけではなく、著者の推測も入ってます。 

()「選択なしの進化」P172 
 昆虫は他の動物と同じく、そのゲノム内に、植物の祖先から受け継いだ数多くの遺伝子を含む。これらは、植物と動物とが大昔に分離する前に生じた。これらの遺伝子のうちのいくつかは、昆虫においては動物の表現型に固有の遺伝子に取ってかわられ、普通は発現されないのであろう。しかし、ある種の分子的な経路で、無機物と祖先である植物の遺伝子が共同して、昆虫に葉のパタンを作るのかもしれない。(中略) 

ランの生物学に関する書物には、多くのナチュラリストたちが観察し、当惑ぎみに認知した事態についての記述がある。この驚きの原因は、昆虫がある属のランと実際に交尾するという観察にある。この現象はいくつかの要素の結果である。オフィリス属のOphrys insectiferaとOphrys apiferaの花の形態と色彩がキスジジガバチの近縁種、ゴリテスgorytes属(argogorytes)のハチに類似している。この花はこの属のハチの雄を花に引きつける匂いのする化学物質(フェロモン)を分泌する。 

このハチの雄は雌より数週間早く生まれるので、この期間交尾する相手がいないのである。それで孤独な雄はランの花にやって来て、それと交尾しようとするのである。その行動は、雄が花をパートナーの雌であると判断するような花の形、色、匂いによって引き起こされる(it1127>たぶんジョークだと思う。ハチの生態よく知らないが、特別な時期だけハチの交尾が行なわれるんじゃなかったっけ?それも特別なハチだけ。じゃあ、ハチのオナニーか)。この性的な活動の間に、その花の花粉はハチの頭部に付着する(it1127>関連。https://www.shikakunavi.net/kids/rika/data/syokubutu/syokubutu_bikkuri.htm)。(中略) 

植物と動物が、もしも無関係な分子システムで構成されていたとしたら、数十億年かかっても、選択は彼らを似通うように作ることはできなかっただろう、ということが今日では明らかである。ランと昆虫の形態的、生理的、機能的な類似は、物理化学的な同型性の必然的な結果として生じる。(中略) 

同型性によって判明したのは、その中に含まれている基本的な過程はまったく無関係というわけではないということと、共通の分子あるいは何らかの類似性の性質を持つ分子のどちらかが類似形態の基本にあるということである。 

()外観の共通性が物理化学的な共通性に還元できるという意味で、思いだされるのが、シマウマなど哺乳動物やゼブラフィッシュなどの魚類などの縞模様だ。チューリング波の理論が、どうやら、実証される目処がついたらしい。 
https://www.sci.nagoya-u.ac.jp/kouhou/07/p6.html 

↑via (2006年12月28日)ランの花に交尾するハチ そして、チューリング波。 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=303885638&owner_id=3300442 

(2006年12月25日)「かたち」と「ちから」 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=301224652&owner_id=3300442 
(2006年12月25日)ゾウの耳はなぜ大きい? 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=301078378&owner_id=3300442 
(2006年12月24日)プロセス感覚とリズム感覚 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=300500424&owner_id=3300442 

(2006年12月15日)「死」と「性」の自覚は表裏一体 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=292984163&owner_id=3300442 
(2008年01月09日)パワー、セックス、自殺 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=679364157&owner_id=3300442 
(2006年12月15日)有性生殖はなぜ必要なのか 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=292955383&owner_id=3300442 
(2006年12月13日)>広葉樹にそっくりな何とかって虫 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=291332712&owner_id=3300442 
(2006年12月13日)乏しい「5感」の世界から、豊饒の「12感覚」の世界へ 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=291153014&owner_id=3300442 
(2006年12月10日)三木さんは「ラセン」の構造を内向性と外向性から 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=288638120&owner_id=3300442 
(2006年12月04日)脳が「生きがい」を感じるとき 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=284010173&owner_id=3300442 

()分子のかたち展https://tinyurl.com/5pnyjo https://www.bk08.org/


この稲光なら安心して見てられる! 形の冒険2

カミナリが怖いのは稲光ではなく大音響だということが判明!いまさらですがwww 

テスラコイルで音楽を奏でる  
https://wiredvision.jp/news/200809/2008090920.html 

うん、これなら安心だ!きれいだな~\(^o^)/ 

気になるのは、この閃光の形(かたち)。稲光に限らず、自然界には同型異質の産物が多々あります。構成物質は違うのに、形が同じというのは、何がそうさせているのか!?興味は尽きない。ということで、前回https://mixi.jp/view_diary.pl?id=928870494&owner_id=3300442につづき、形の冒険! 

()「選択なき進化」P156 植物と無機物の同型性 

自然銅-海藻の体制 
電気放電-根の断面 
水の結晶-シダの若枝 
孔雀石-幹の断面 
自然金-シダの葉 
アラレ石-花の断面 
硬石膏-スイレンの花 
疑孔雀石-果実 
方解石-果実の表面 

()「選択なき進化」P166 動物と無機物の同型性 

灯油磁鉄鉱-ヒト脳のしわ 
硫化亜鉛-ヒト頭蓋の縫合線 
自然金-動物の骨格 
水の結晶-鳥の羽 
食塩-哺乳類センザンコウの鱗 
緑泥石の結晶-羊の角 
アラレ石の結晶-ヤマアラシの刺状突起 
石膏の結晶-恐竜の装甲板 
アラレ石の結晶-シカの角 
方解石の結晶-魚の体や昆虫の眼の六角形 

順次、検索できた画像を追記の予定。蚊の化石はご愛敬ww 

フォト フォト
蚊の化石(Mosquito)               自然銅(Copper) 樹枝状の結晶 
https://tinyurl.com/5na73h            https://tinyurl.com/5scwlv 

フォト フォト  
シダの葉                       自然金(Native Gold) 樹枝状の結晶 
https://tinyurl.com/6xvnqb            https://tinyurl.com/5jt4v9

2013年1月5日土曜日

デカルトが書を捨て旅に出た後、何と言ったか!?


ふとしたきっかけ。遠い記憶シークエンスの一環。拙mixi日記2009年11月26日19:20をコピペ。

『方法序説』。いま読んでもぜんぜん違和感がない。時代や場所が違えば考え方も異なる、とはいえ、時代を場所を超えて普遍的な考えもあるのだなーと改めて思い知った次第。多種多様の物語や習慣などに共通するパターンを見出すのが構造主義なら、もしそこにデカルトの関心が向かえば構造主義者になっていたかもしれないと思わせるような文章がある。

柄谷行人は、『探究Ⅱ』で、『悲しき熱帯』という回想的スタイルが『方法序説』と類似している。レヴィ・ストロースが「あれほど遠くまで探し求めに行く真理」は、デカルトと同様に、旅や探検が見出す多様性を取り去ったところにある。そして、彼が見出す武器は、デカルトと同じく数学(構造主義)なのである。彼は、多種多様な婚姻形態や神話に対して、そこにいわば普遍的な「理性」が存することを認める。と記している。

デカルトが自然に対して数学を用いたのなら、レヴィ・ストロースは、人間の思考や習慣に数学を用いたと言える。

『方法序説』第二部より
P24 ところで私のことを言えば、もし私がただ一人の先生しかもたなかったならば、あるいはまた偉い学者たちの意見がいつの時代でも種々異なっていたのを知るに至らなかったならば、私は疑いもなく第二の種類の人間(注1)に数えられていたであろう。

しかし私は、すでに学校時代に、どんな奇妙で信じがたいことでも哲学者の誰かが既に言っているものだ、ということを知った。またその後旅に出て、我々の考えとは全く反対の考えを持つ人々も、だからといって、みな野蛮で粗野なのではなく、それらの人々の多くは、我々と同じくらいにあるいは我々以上に、理性を用いているのだ、ということを認めた。

そして同じ精神を持つ同じ人間が、幼時からフランス人またはドイツ人の間で育てられるとき、仮にずっとシナ人や人食い人種の間で生活してきた場合とは、P25 いかに異なったものになるかを考え、また我々の着物の流行においてさえ、十年前には我々の気に入り、また十年経たぬうちにもう一度我々の気に入ると思われる同じものが、今は奇妙だ滑稽だと思われることを考えた。


そして結局のところ、我々に確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにくい真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であることの方がはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことは何ら有効な証明ではないのだ、ということを知った。


こういう次第で私は、他を置いてこの人の意見をこそ取るべきだと思われる人を選ぶことができず、自分で自分を導くということを、いわば強いられたのである。

しかし私は、ただ一人闇の中を歩む者のようにゆっくりと行こう、すべて細心の注意を払おう、と決心した。そしてそうすれば、たとえ少ししか進めなくても、せめて倒れることだけは免れるだろう、と考えた。

のみならず私は、理性に導かれずに前から私の信念の中へ入り込んでいた意見のどれをも、はじめから一挙に投げ捨てようとは思わなかった。それに先立ち、まず十分な時間を費やして、自分の企てる仕事の計画を立て、自分の精神が達しうるあらゆる事物の認識に至るための、真の方法を求めようとしたのである。


追記 2018.03.06 『方法序説』P20-24、82 画像クリックでオリジナルサイズ表示

ここ好き→
P21 一私人が、一国のすべてを土台からつくりかえ、それをいったんくつがえして建て直すというようなやり方で、国を改革しようと計画することは、まことに不当なことであり、またそれほどのことでもなくとも、もろもろの学問の組織を、あるいは学校でもろもろの学問を教えるために定められている秩序を、P22 改革しようとすることすらも、一私人の計画すべきことではないであろう。

しかしながら、私がこれまで信念のうちに受け入れたすべての意見に関しては話は別であって、一度きっぱりと、それらを取り除いてしまおうと企てること、そしてそうしたうえでふたたび、よりいっそうよい意見をとり入れるなり、あるいは前と同じ意見でも一度理性の規準によって正しくととのえたうえでとり入れるなりするのが、最上の方法なのである。

そしてこの方法をとることによって私は、自分がただ古い土台の上に建てたにすぎなかった場合よりも、また幼い時に教え込まれた諸原理のみを、それが真理であるかどうか一度も吟味せずに、自分のよりどころとした場合よりも、はるかによく私の生活を導くことに成功するであろう、とかたく信じたのである。

(中略)私の計画は、私自身の考えを改革しようとつとめ、まったく私だけのものである土地の上に家を建てようとすること以上におよんだことはけっしてない。私のやったことが私には十分満足すべきものであって、ここにその模型を読者に示すとしても、だからといってそれに倣うことを人にすすめようとするものではない

P83 この機会にここで後世の人々に、私の意見だと人から聞いても、私が自身で公にしたことではければ、けっして信じないようにと、お願いしておきたい。

(注1)他人の意見に従う、謙虚な人間。

関連(tw)