2013年1月8日火曜日

形の冒険

ふと思い出す。遠い記憶シークエンス。拙mixi日記2008年09月10日10:47をコピペ。

フォト フォト
https://labaq.com/archives/51094250.html 

自然が象る形は、普遍(universality)と多様(diversity)と同様、https://mixi.jp/view_diary.pl?id=923010731&owner_id=3300442 私の関心の一つ。 

物質から生物まで自然が象る形には規則性が存在している。このことは、逆に人間の脳が規則性を以って世界を認識することに他ならない。驚きなのは、擬態など、動物と植物が偶然とはいえ姿形が似てしまうことがあるということ。これも自然の物理化学的性質に他ならない。 

ちょうどいい機会ということで、過去の日記をまとめてみた。 

フォト 雪の結晶ギャラリー フォト
https://www1.odn.ne.jp/snow-crystals/gallaly.html 

()雪の花の謎は解けるか 
https://www1.odn.ne.jp/kentaurus/snow.htm 
↑via (2006年12月22日)雪は天からの手紙 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=298904407&owner_id=3300442 

()「形の冒険」P49 
対称性は人間を魅惑すると同時に拒絶する。対称は完成であると同時に死であるからだ(tw)。数学はあるものを魅了し、あるものを退ける。なぜならそれは、論理的思考に必要な二つの能力--確かな論理体系を構築する能力と、個人の人格にかかわる問題を回避する能力--を象徴的に示しているからだ。 

成長する草木は人を惹きつける。実った麦畑も同様である。猛り狂う虎は威風堂々としているが、恐ろしい。満天の星は心を揺さぶる。いずこであれ秩序と無秩序、平衡と両極性、画一と対照との相互作用に立ち会ったとき、われわれはその内なる響きあいに目を開かれる。 

こうした感動の存在自体、いっさいの感傷を抜きにして、人間と宇宙とが一体であることの証しにほかならない。宇宙は人間にとって好意的でも敵対的でもない--それは人間の生命同様、両義的なものなのだ。 

この両義性の原因のひとつは、秩序と無秩序という二面性にある。自然も人間も、ともに秩序へ向かう傾向をもつ。したがって人間の原初的な衝動は、秩序や対称性を積極的に受け入れようとする。しかし、次に人間は、すべてが秩序と対称性一色に塗りつぶされたのを目の当たりにして、そこには生命は存在し得ないことを悟る。対称性の志向が理想へと向かうことと解釈されるなら、それは死の希求にほかならない。 

↑via (2006年12月25日)感情をよび起すもの (リンク切れ修正P48,50

()「生命とは何か」P141 
そもそも秩序正しい事象を生み出すことのできる「仕掛け」には、二通りの異なるものがあるように思われます。すなわちその一つは「統計的な仕掛け」であって、これは「無秩序から秩序」を生み出すものです。 

もう一つの新しいものは「秩序から秩序」を生み出すものです。先入観をもたない人には、第二の原理の方がずっと単純でずっと考えやすいよう思われましょう。確かにそのとおりです。 

↑via (2006年12月24日)秩序性を生み出す二つの道 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=300248086&owner_id=3300442 

()「選択なしの進化」P64  
形態と機能は初期の進化レベルでの物理化学的および無機質的な特徴から生じた。つまり、形態と機能は遺伝子や染色体によって作られたのではなかった。さらに、現在の生物の世界においても、形態と機能は遺伝子や染色体に第一義的に依存しているわけでもない。 

明らかに遺伝子と染色体は形態と機能に影響を与えており、それは遺伝の実験で明確に示される。しかしながら、このことは遺伝子が形態と機能の形式過程の起源に当たるということを意味しない。 

遺伝子と染色体は創造しない。 

それらの介在は重要であるが、それは二次的なレベルにすぎず、ある定まった形態と機能の枠内においていかなる変異体が固定されるかを決定しているだけである。遺伝子と染色体の役割はおもに、一連の有限個の組み合わせから生じた一状態を固定するものである。 

P64 ダーウィニズムやネオ・ダーウィニズムにとって変異は進化の主たる構成要素である。形態や機能の不変性は遺伝という概念のもとに属するとみなされている。遺伝の概念が進化の概念とは別のものとして作り上げられた理由はここにある。さらに、変異はランダムにどんな方向にも起こるものと考えられている。 

パタンや構造が不変であることの進化における重要性は、発生学者、解剖学者あるいは古生物学者たちにはつねに強調され続けたが、現代進化論における総合学説の擁護者たちはそれを無視し、変異を強調してきた。 

進化において基本的だと思われることは、いままで第一義的に重要であると考えられていたのとは逆の過程である。もっとも重要なのは不変性を維持する基礎的構造である。というのはそれはどんな型の変異が起こり得るかの手掛かりを含むからである。 

↑via (2006年12月30日)選択なしの進化 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=304862421&owner_id=3300442 

フォト フォト
「選択なしの進化」(1988)は、ネオ・ダーウィニストの自然選択を否定する進化論で、植物や動物の形の相同性を豊富な実例(自然銅の樹枝状結晶、肺の血管の樹枝状構造とか、無機物、有機物に共通する構造)を挙げて、物理化学の言葉で書かれています。「ランダムな突然変異と自然選択」よりも「自己組織化、環境との相互作用」を強調する。著者は言う「選択は顕かに存在しているが、それは進化とは何の関係もない(P20)。本書のいくつかの考えは、パスツール、ゲーテ、アリストテレスにさかのぼることができる(P25)」。私好みなのですが、この本によるとこうあります。必ずしも検証されたというわけではなく、著者の推測も入ってます。 

()「選択なしの進化」P172 
 昆虫は他の動物と同じく、そのゲノム内に、植物の祖先から受け継いだ数多くの遺伝子を含む。これらは、植物と動物とが大昔に分離する前に生じた。これらの遺伝子のうちのいくつかは、昆虫においては動物の表現型に固有の遺伝子に取ってかわられ、普通は発現されないのであろう。しかし、ある種の分子的な経路で、無機物と祖先である植物の遺伝子が共同して、昆虫に葉のパタンを作るのかもしれない。(中略) 

ランの生物学に関する書物には、多くのナチュラリストたちが観察し、当惑ぎみに認知した事態についての記述がある。この驚きの原因は、昆虫がある属のランと実際に交尾するという観察にある。この現象はいくつかの要素の結果である。オフィリス属のOphrys insectiferaとOphrys apiferaの花の形態と色彩がキスジジガバチの近縁種、ゴリテスgorytes属(argogorytes)のハチに類似している。この花はこの属のハチの雄を花に引きつける匂いのする化学物質(フェロモン)を分泌する。 

このハチの雄は雌より数週間早く生まれるので、この期間交尾する相手がいないのである。それで孤独な雄はランの花にやって来て、それと交尾しようとするのである。その行動は、雄が花をパートナーの雌であると判断するような花の形、色、匂いによって引き起こされる(it1127>たぶんジョークだと思う。ハチの生態よく知らないが、特別な時期だけハチの交尾が行なわれるんじゃなかったっけ?それも特別なハチだけ。じゃあ、ハチのオナニーか)。この性的な活動の間に、その花の花粉はハチの頭部に付着する(it1127>関連。https://www.shikakunavi.net/kids/rika/data/syokubutu/syokubutu_bikkuri.htm)。(中略) 

植物と動物が、もしも無関係な分子システムで構成されていたとしたら、数十億年かかっても、選択は彼らを似通うように作ることはできなかっただろう、ということが今日では明らかである。ランと昆虫の形態的、生理的、機能的な類似は、物理化学的な同型性の必然的な結果として生じる。(中略) 

同型性によって判明したのは、その中に含まれている基本的な過程はまったく無関係というわけではないということと、共通の分子あるいは何らかの類似性の性質を持つ分子のどちらかが類似形態の基本にあるということである。 

()外観の共通性が物理化学的な共通性に還元できるという意味で、思いだされるのが、シマウマなど哺乳動物やゼブラフィッシュなどの魚類などの縞模様だ。チューリング波の理論が、どうやら、実証される目処がついたらしい。 
https://www.sci.nagoya-u.ac.jp/kouhou/07/p6.html 

↑via (2006年12月28日)ランの花に交尾するハチ そして、チューリング波。 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=303885638&owner_id=3300442 

(2006年12月25日)「かたち」と「ちから」 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=301224652&owner_id=3300442 
(2006年12月25日)ゾウの耳はなぜ大きい? 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=301078378&owner_id=3300442 
(2006年12月24日)プロセス感覚とリズム感覚 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=300500424&owner_id=3300442 

(2006年12月15日)「死」と「性」の自覚は表裏一体 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=292984163&owner_id=3300442 
(2008年01月09日)パワー、セックス、自殺 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=679364157&owner_id=3300442 
(2006年12月15日)有性生殖はなぜ必要なのか 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=292955383&owner_id=3300442 
(2006年12月13日)>広葉樹にそっくりな何とかって虫 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=291332712&owner_id=3300442 
(2006年12月13日)乏しい「5感」の世界から、豊饒の「12感覚」の世界へ 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=291153014&owner_id=3300442 
(2006年12月10日)三木さんは「ラセン」の構造を内向性と外向性から 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=288638120&owner_id=3300442 
(2006年12月04日)脳が「生きがい」を感じるとき 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=284010173&owner_id=3300442 

()分子のかたち展https://tinyurl.com/5pnyjo https://www.bk08.org/


この稲光なら安心して見てられる! 形の冒険2

カミナリが怖いのは稲光ではなく大音響だということが判明!いまさらですがwww 

テスラコイルで音楽を奏でる  
https://wiredvision.jp/news/200809/2008090920.html 

うん、これなら安心だ!きれいだな~\(^o^)/ 

気になるのは、この閃光の形(かたち)。稲光に限らず、自然界には同型異質の産物が多々あります。構成物質は違うのに、形が同じというのは、何がそうさせているのか!?興味は尽きない。ということで、前回https://mixi.jp/view_diary.pl?id=928870494&owner_id=3300442につづき、形の冒険! 

()「選択なき進化」P156 植物と無機物の同型性 

自然銅-海藻の体制 
電気放電-根の断面 
水の結晶-シダの若枝 
孔雀石-幹の断面 
自然金-シダの葉 
アラレ石-花の断面 
硬石膏-スイレンの花 
疑孔雀石-果実 
方解石-果実の表面 

()「選択なき進化」P166 動物と無機物の同型性 

灯油磁鉄鉱-ヒト脳のしわ 
硫化亜鉛-ヒト頭蓋の縫合線 
自然金-動物の骨格 
水の結晶-鳥の羽 
食塩-哺乳類センザンコウの鱗 
緑泥石の結晶-羊の角 
アラレ石の結晶-ヤマアラシの刺状突起 
石膏の結晶-恐竜の装甲板 
アラレ石の結晶-シカの角 
方解石の結晶-魚の体や昆虫の眼の六角形 

順次、検索できた画像を追記の予定。蚊の化石はご愛敬ww 

フォト フォト
蚊の化石(Mosquito)               自然銅(Copper) 樹枝状の結晶 
https://tinyurl.com/5na73h            https://tinyurl.com/5scwlv 

フォト フォト  
シダの葉                       自然金(Native Gold) 樹枝状の結晶 
https://tinyurl.com/6xvnqb            https://tinyurl.com/5jt4v9

2013年1月5日土曜日

デカルトが書を捨て旅に出た後、何と言ったか!?


ふとしたきっかけ。遠い記憶シークエンスの一環。拙mixi日記2009年11月26日19:20をコピペ。

『方法序説』。いま読んでもぜんぜん違和感がない。時代や場所が違えば考え方も異なる、とはいえ、時代を場所を超えて普遍的な考えもあるのだなーと改めて思い知った次第。多種多様の物語や習慣などに共通するパターンを見出すのが構造主義なら、もしそこにデカルトの関心が向かえば構造主義者になっていたかもしれないと思わせるような文章がある。

柄谷行人は、『探究Ⅱ』で、『悲しき熱帯』という回想的スタイルが『方法序説』と類似している。レヴィ・ストロースが「あれほど遠くまで探し求めに行く真理」は、デカルトと同様に、旅や探検が見出す多様性を取り去ったところにある。そして、彼が見出す武器は、デカルトと同じく数学(構造主義)なのである。彼は、多種多様な婚姻形態や神話に対して、そこにいわば普遍的な「理性」が存することを認める。と記している。

デカルトが自然に対して数学を用いたのなら、レヴィ・ストロースは、人間の思考や習慣に数学を用いたと言える。

『方法序説』第二部より
P24 ところで私のことを言えば、もし私がただ一人の先生しかもたなかったならば、あるいはまた偉い学者たちの意見がいつの時代でも種々異なっていたのを知るに至らなかったならば、私は疑いもなく第二の種類の人間(注1)に数えられていたであろう。

しかし私は、すでに学校時代に、どんな奇妙で信じがたいことでも哲学者の誰かが既に言っているものだ、ということを知った。またその後旅に出て、我々の考えとは全く反対の考えを持つ人々も、だからといって、みな野蛮で粗野なのではなく、それらの人々の多くは、我々と同じくらいにあるいは我々以上に、理性を用いているのだ、ということを認めた。

そして同じ精神を持つ同じ人間が、幼時からフランス人またはドイツ人の間で育てられるとき、仮にずっとシナ人や人食い人種の間で生活してきた場合とは、P25 いかに異なったものになるかを考え、また我々の着物の流行においてさえ、十年前には我々の気に入り、また十年経たぬうちにもう一度我々の気に入ると思われる同じものが、今は奇妙だ滑稽だと思われることを考えた。


そして結局のところ、我々に確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにくい真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であることの方がはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことは何ら有効な証明ではないのだ、ということを知った。


こういう次第で私は、他を置いてこの人の意見をこそ取るべきだと思われる人を選ぶことができず、自分で自分を導くということを、いわば強いられたのである。

しかし私は、ただ一人闇の中を歩む者のようにゆっくりと行こう、すべて細心の注意を払おう、と決心した。そしてそうすれば、たとえ少ししか進めなくても、せめて倒れることだけは免れるだろう、と考えた。

のみならず私は、理性に導かれずに前から私の信念の中へ入り込んでいた意見のどれをも、はじめから一挙に投げ捨てようとは思わなかった。それに先立ち、まず十分な時間を費やして、自分の企てる仕事の計画を立て、自分の精神が達しうるあらゆる事物の認識に至るための、真の方法を求めようとしたのである。


追記 2018.03.06 『方法序説』P20-24、82 画像クリックでオリジナルサイズ表示

ここ好き→
P21 一私人が、一国のすべてを土台からつくりかえ、それをいったんくつがえして建て直すというようなやり方で、国を改革しようと計画することは、まことに不当なことであり、またそれほどのことでもなくとも、もろもろの学問の組織を、あるいは学校でもろもろの学問を教えるために定められている秩序を、P22 改革しようとすることすらも、一私人の計画すべきことではないであろう。

しかしながら、私がこれまで信念のうちに受け入れたすべての意見に関しては話は別であって、一度きっぱりと、それらを取り除いてしまおうと企てること、そしてそうしたうえでふたたび、よりいっそうよい意見をとり入れるなり、あるいは前と同じ意見でも一度理性の規準によって正しくととのえたうえでとり入れるなりするのが、最上の方法なのである。

そしてこの方法をとることによって私は、自分がただ古い土台の上に建てたにすぎなかった場合よりも、また幼い時に教え込まれた諸原理のみを、それが真理であるかどうか一度も吟味せずに、自分のよりどころとした場合よりも、はるかによく私の生活を導くことに成功するであろう、とかたく信じたのである。

(中略)私の計画は、私自身の考えを改革しようとつとめ、まったく私だけのものである土地の上に家を建てようとすること以上におよんだことはけっしてない。私のやったことが私には十分満足すべきものであって、ここにその模型を読者に示すとしても、だからといってそれに倣うことを人にすすめようとするものではない

P83 この機会にここで後世の人々に、私の意見だと人から聞いても、私が自身で公にしたことではければ、けっして信じないようにと、お願いしておきたい。

(注1)他人の意見に従う、謙虚な人間。

関連(tw)

2012年12月25日火曜日

科学の新しい考えは、反対者を説き伏せることによってではなく、むしろ反対者がいずれ死に絶えるがゆえに勝利を収めるのです

ふと思い出したので、遠い記憶を求めてシークエンス。拙mixi日記2008.07.20コピペ。

 某ブログを読んでいて思い出したのでメモ。大抵はそうだけど、時としてそうでない場合もあるということ、だからこそ、それを目にしたとき、人(わたし)は感動する! 

『ミトコンドリアが進化を決めた』P125 
1970 年代の中ごろには、まだ分子レベルの現象をいろいろ解き明かす必要があり、それが物議をかもしていたものの、大半の研究者はミッチェルの見方に同調するようになっていた---ミッチェルはライバルたちがいつ「転向」したかを示す一覧表まで残していて、彼らを激怒させた。彼が1978年にひとりでノーベル化学賞を受賞したことも、冷遇される一因となったが、その飛躍的な考えは単独受賞に値していたと私は思う。かつて10年ほど精神的につらい期間を過ごし、生体エネルギー論の敵対的な研究者に加え、病気とまで戦った彼も、最高に手厳しかった批判者の転向を、生きて目にすることができたのである。ノーベル賞の受賞講演で彼らの思想的な寛大さに感謝の意を述べた際、ミッチェルは偉大な物理学者マックス・プランクのこんな言葉を引き合いに出している---「科学の新しい考えは、反対者を説き伏せることによってではなく、むしろ反対者がいずれ死に絶えるがゆえに勝利を収めるのです」。この悲観的な言葉を反証してみせたのは、「非常にうれしい成果」だった、とミッチェルは言っている。 

『ミトコンドリアのちから』P179 
ミッチェルは晩年、自らが提唱した生体エネルギー学からさえも抜け出したいと考えていたらしい。そして、カール・ポパーの科学哲学に共鳴しつつ、「科学の人間性」について思索を巡らせた。科学は客観的真理を扱うと思われがちだが、本当は人の心が実在世界を捉えることによってなされるのだから、科学の人間性を探求しなければならない。実験の限界も知らず、謙虚な態度を失えば、科学者は自分たちの学派に閉じこもってしまうだろう---ミッチェルはそう唱えた。自らの健康を犠牲にするほどの論争を潜り抜けてきた彼だからこそ、重みを持って伝えられる思想であった。 

(メモ)渡久地明の時事解説:改めて確信を持って常温核融合をおすすめする 
http://toguchiakira.ti-da.net/e1560943.html 
マックス・プランクが言ったように「科学の進展は葬式ごとに進む。」彼は次のように説明した。「新しい科学の真実の勝利は反対の人を目から鱗が落ちるように説得させるわけではなくて、むしろ反対派はだんだん死んでいき、その新しい真実に慣れた新しい世代が成長してくる。」 
 権力のある支配者層の科学者がたくさんいて、あまり理性のない熱情で反対しているので、自分が間違っていると白状できないから、研究は彼らが死ぬまで待たなければならないだろう。残念ながら常温核融合の研究者は引退した科学者が多くて、反対派の人よりも年上で早く死に絶えている現状だ。(まえがき) 

http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20080527/1211859138 

(メモ)巻頭言 信と不信 <GA Site> 
http://www.gasite.org/library/ucon133/index.html 
ドイツの大物理学者マックス・プランクは言っている。 
「反対論者をしだいに屈伏させて転向させるという形で重要な科学的革新が行なわれることはめったにない。サウロがパウロに変わることはほとんどないのだ (注=迫害者サウロは後に転向して使徒パウロとなり、不滅の名を残した。サウロはへブル名)。それが変わるのは、反対論者がしだいに死に絶えると次の世代は革新的な学説を支持するからだ。結局未来は若者の手にあるのだ」  

(メモ)支配としての模範 
http://www.nagaitosiya.com/b/paradigm.html 
クーンはマックス=プランクの次のような言葉を引用している。 
新しい科学的真理が勝利をおさめるのは、それの反対者を納得させ、彼等の蒙を啓くことによってではなく、その[年寄りの頑固な]反対者が最終的に死に絶え、当の新しい科学的真理に慣れ親しんだ新しい世代が成長することによってである。 

(メモ)趣味の経済学 民主制度の限界 
http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/seido.html 
研究はその分野の老教授が死ぬことによって進歩するという、マックス・プランクの言葉 

(メモ)「相手のほうが正しい」と認められるかが基準
https://toyokeizai.net/articles/-/627560?page=4
本当に真実を知ろうとしている人と、ただ頭でそう思っているだけの人を分けるのは、「正当な批判を認める」「今回は『相手のほうが正しい』と言える」「自分の間違いを認められる」といった行動をとっているかどうかだ。

もし自分の意見を批判されたとしたら、こう考えてみよう。

「自分とは違う考えだが、理にかなっていると思えるもの(その意見を持つ人を知らなくても)はないだろうか?」

「自分は理性的で、賢く、知識がある」と感じているのと、それを実践していることは、別の話だ。

(メモ)科学と芸術、あるいは、普遍と個別
https://ghoti-ethansblog.blogspot.com/2019/01/blog-post_16.html#248
P248 まったく同じ実験データでも、いろいろに解釈できることがままあるのだ。---この事実こそ、科学の歴史が文学批評の歴史とおなじくらい多くの悪意に満ちた議論で埋めつくされている理由である。

かくしてわれわれは、実験によって科学的な理論を検証するという相対的に客観的な方法から、美学的価値という相対的に主観的な判断基準まで、一連の連続的な変化を再び手にすることになる。

2012年12月8日土曜日

アメリカ政治の6大潮流

ふとしたきっかけでこれを思い出した。拙mixi日記2008年02月02日をコピペ。


リベラルに関するツイート(検索/tw/tw/tw/tw/tw)
私の理解tw/tw

アメリカ政治の6大潮流』(副島隆彦著)より
このバーキアン(自然法派)とロッキアン(自然権派)の巨大な対立軸のことが、この百年間、日本の政治知識人層には全く分からないのである。http://soejima.to/souko/strategy/ 
共和党-A 民主党-B 
A1) 伝統保守派(保守本流)=エドマンド・バーク主義(バーキアン)=「自然法」(ナチュラル・ロー)派 
A2) 現実保守派=ジョン・ロック主義(ロッキアン)=「自然権」(ナチュラル・ライツ)派 
A3) リバータリアン派=ジェレミー・ベンサム主義(ベンサマイト)=「人定法」(ポジティブ・ロー) 
A4) ネオ・コン派=新保守主義、外交・軍事問題におけるグローバリスト 
B1) 現代リベラル派=「人権」(ヒューマン・ライツ)派、福祉推進派 
B2) 急進リベラル派=アニマル・ライツ派、環境保護派、反資本主義、反体制派 
私は、どんな思想にせよ好きなことができて食べていければそれでよいと思っている。ただ考え方が素晴らしければ素晴らしいほどその実現は難しい気はする。そういう意味でバークの思想には共感するのであるが、現実の政治にはあまり関与したくはないといった感じだ。 

著者の研究は分り易い。どんな考え方があるのか知りたい、ということで、しばらく『現代アメリカ政治思想大研究』をメモ。

自然権と自然法
P118 ジョン・ロックが創始した「自然権」=「憲法が保障する諸人権のカタログ」の思想に正面から対決した思想家が、エドマンド・バーク(1729-97)である。バークは自分の属したホイッグ党Whig Partyの立場に従い、アメリカ独立革命運動には理解を示したが、フランス大革命には大反対であった。フランス革命を実行に移したフランスの過激派政治家たちがロックの「自然権」を鵜呑みにして、それを自分たちの行動の原理として担ぎ上げ、「人間は生まれながらに自由かつ平等だ」と高らかに宣言したこと、それ自体を大変嫌った。 
なぜなら、この地上でこれまで人間が、そして社会が自由で平等であることなどなかったし、大昔も過去も現在も、それからおそらく未来においても、政治宣言として「そうあるべきだ」と主張する以外には、そんなことはないからである。かつ、そんなことは誰にも証明できないからである。実際の人間世界では、「人間は、なるべく個人の努力により、自由かつ平等であるべきだ」としか、本当は言えないのである。 
近代以降の人類が犯した戦乱や民族皆殺しや政治的大量殺人などの数々の悲劇と大間違いは、この自然権思想の立場に立って現実の世界を無視して楽天的に、「人間は自由で平等だ」などと簡単に宣言してしまったことにある、と考える根本保守の思想は、実質的にこのバークによって始まった。 
バークと同時代のスコットランドの大哲学者ヒューム(1711-76)もまた、その懐疑主義の立場から自然権を否定した。現実の人間世界は、つまらぬイデオロギーの色眼鏡を外して冷静に見れば、不自由でかつ不平等なものであり、ちょっとやそっとのことでこの現実は変わらない。また、変えられなるわけがない。 
ところが、この人間世界の現実を急激に現状を変えようとして、かえって、政治権力を握った者たちが理想主義に燃えて革命・大改革を断行しようとして、かえってあれこれの不都合を引き起こし、結局それは強制収容所や政治的大量殺人という、ろくでもないことにしかならなかったことは、歴史の教えるところである。 
人権派とは何か
P122 バークの(A1)自然法の思想は、現代につながる根本的保守の態度の思想として「近代民主主義憲法体制」そのものと対決するものとして生まれたのである。そしてそうであるが故に、この世の中を表面的なキレイゴトとしてではなく、もっと深く深く考えようとする、優れた保守的人格の多くの人々が今も世界中にたくさん存在して、彼らに「我はバーキアンBurkeanなり」と言わしめるのである。彼らは、利権や現実勢力に結びつく現実的保守主義者たちとは違って、「永遠の保守的態度の人々」と呼ばれるべきだ。 
しかし、ロックの(A2)自然権派の方だって、この世界政治思想上の大対決において、簡単に負けてはいない。それは20世紀に入ってさらに拡張・拡大されて、「憲法が定める基本的人権」となった。これはたとえば、われわれ日本人の現行の『日本国法典』(1946)や、国際連合の『世界人権宣言』(1948)などを作るに至った。そしてこのロックの自然権から始まった「憲法が定める基本的人権」を、まるで当然の「自明の実在の権利としての、国家に対する請求権だ」と考えるに至った。 
すなわち、「ひとりひとりの人間が国家に対して自分の生活を保障するように請求できる権利をもっている」「それは生まれながらの、奪うことのできない権利だ」と思い込んだ人々が、世界中に多数存在するようになった。現代世界の多数派は、この派の人々である。それは『世界人権宣言』というものの存在の一つをとって見ても分ることだ。  
彼らは自分たちのことを(B1)人権派=リベラル派、あるいは民主主義者と信じて、自分たちのことを正義の人々と信じ込むに至った。このような人々が大量に生まれて、現在に至っているのである。
日本国憲法では、第25条の「生存権、国の生存権保障義務」として、「全て国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」としているが、ここのこの人権派の思想がよく表れている。私はこの人権派を単に人権派と呼ばずに、より正しくは「constitutional human rights(憲法体制的人権)派」と呼ぶべきだと思う。
ここで注意すべき点は、この(B1)人権派と(A2)自然権派とは、厳密に分けて考えなければならないことである。ロック直系の(A2)自然権において、憲法典は「生命・身体及び財産の自由」だけを保障宣言しているのである。自然権派は、「人間の生命、身体、財産所有の国家からの自由・独立・不可侵」だけを定めているのであって、「憲法典は全ての人間の社会福祉までを保証している」とする(B1)人権派とは、本来、決定的に違うことを知らなければならない。 
(A2)自然権派は保守思想であり、(A1)自然法派と対立して近代西欧を支配した二大保守の潮流の一方の雄である。それに対して(B1)人権派は、(A2)から派生して、(A2)とは違うものに成長していった。人類の自己誤解の巨大な産物である。(B1)は、その後の社会主義思想と混合して出来上がった、完全なリベラル派である。 
日本では、(A1)は本格的には輸入されないまま今日に至り、(A2)と(B1)はごっちゃになって区別をしっかり付ける間もなく「天賦人権論」として明治の中期に入ってきて、そのままベタッとくっついたまま、(A2)は左翼的人間主義運動としての(B1)に飲み込まれて行方不明となって現在に至ったのである。 
1914年、日本に初めて反天皇制の民主主義=民本主義を『中央公論』誌に説いて華々しく登場したのが吉野作造だったが、それからたった10年後には、日本の政治思想の主流は、ソヴィエト共産主義(社会主義)に飲み込まれていった。したがって、明確に(A2)であった吉野の民本主義と(B1)の左翼・社会主義の区別をつける力がないままに、日本の政治思想は(B1)派に成り果てて、やがて戦後にも(B1)派の全盛を迎えたのだった。 
天賦人権論は明治の初めから福沢諭吉がアメリカ経由でジョンロックの思想を輸入して広めた。有名な『学問のすすめ』の中の、「天は人のうえに人を造らず、人の下に人を造らずと言えリ」である。自由民権運動の中からも、たとえば中江兆民によって、ルソーの『民約論』などが過激な思想として伝えられた。簡単に言えば、ルソーの思想はロックに比べて過激人民主義で、(A2)派からの(B1)派の分離を予兆していた。ルソーの一般意思論がそれだ。そしてルソーの思想は、のちにナチスやスターリン型の(B1)派につながる。 
それに対して、近代自由思想家としての(A1)の自然法を強調したバークの思想がイギリス古典自由思想として日本に到着したのは、やっと第二次世界大戦後のことである。それは、ヨーロッパの政治思想をこつこつ学んだ少数のすぐれた政治学者たちだけが共有している思想であって、政治学者たちの論文としてはたくさん書かれたのだが、一般読書人にはほとんど知られていないのが現状である。 
P126 日本では(A2)のロック系の自然権は(B1)の人権派の人権と混じり合ったまま、「憲法が定める基本的人権」の「諸人権カタログ論」として今日に至る。 
アリストテレスに起源をもちバーク改訂による(A1)自然法の方は、ちっとも理解されずに現在に至っている。 
日本では政治思想をめぐる問題は、左翼(モスクワ寄りマルクス主義的社会主義派、反モスクワ派もいたが)と、保守派(民族主義的な天皇尊重派、あるいは資本主義肯定派、あるいはアメリカ寄りの反共保守)の対立としてであった。最近は日本でも急激に増えている自称保守主義者の人々でも、ついほんのこの間まではちっともそうでなくて、学生時代には左翼活動家だったりする。  
アメリカの自然法派と自然権派と人権派

P132 自然法派を制度によって微分(極端化)したものが自然権派であり、これをさらに近代憲法典によって微分したものが人権派である。そしてこの人権派をさらに動物・生命の次元で3回微分すると、「高等動物擁護=環境保護」派になる。 
P127 東部の名門大学の法学部は、200年前のアメリカ建国当時の、アメリカ憲法を定めた時の、その権利宣言を法律解釈の基準として重視する。彼らは「アメリカ市民の生命と身体と財産の所有の自由と、生産活動の自由を保障するために、国家はあるのだ」と考える。自然権派そのものである。 
P128 彼らは、現実の憲法体制の存在を自明の前提とし、それを現実の秩序として確固たるものとして認めた上で、職業人として、このアメリカ憲法に基づく政治体制に奉仕するのが自分たち専門的法律家なのだと考える。だから、自然権は、徹底的にプロの職業的法律家の思想である。 
念のため繰り返すと、自然権は人権と呼ばれるものと重なるのだが、この自然権には「貧しい人々の生きる権利」や「社会福祉優先」や「政治的少数者の側の権利」などのいわゆる「社会権的人権」の類は含まれない。 
ハート自然権派は「生命・身体・財産の自由」だけを重視するのであって、「それ以上の各種の人権の保護」を強調する人権派=リベラル派とは異なる。ジョン・ロックの真骨頂は、「財産の所有権」という制度思想を作って「所有権が人間の自由を保障するのだ」とした点にある。 
アメリカの建国期に成立したこの自然権派は、ロックの思想を下書きにし『独立宣言』を実際に起草したジェファーソンに代表される。それに対してアメリカの自然法派は、法思想家としてのリンカーン(1809-65)第16代大統領をその代表とする。 
リンカーン大統領は、アメリカ合衆国憲法の個々の定めよりも、もっとその奥にある、永遠なるものを強調した人だ、とアメリカ国民一般に受けとめられている。「永遠の相の下における」という言葉が、自然法派の合言葉なのである。 
それに対して自然権派は、自分たちは法学者・法律家としての現実の「それぞれの法律の定めに従って規制をする」だけなのであって、この場合「その法律そのものが正義であるか、善であるか」などということを判断すべきでないし、かつ、その権限も自分たちにはないと考える。 
そのようなことは法律家がとやかく言うべきことではなくて、それは議会が決めることである。国民の代表たる議員たちが法律を作るのであって、その際憲法の条文や個々の法律の正義や善や公正さについては、彼ら議員たちが議論し論究すればいいのであって自分たち法律家の仕事ではない、とする。 
P129 自然権派は、自分たちはもっぱら職業人として法律実務家なのであり、「それぞれの法律を基準・尺度にして紛争を解決し」「法律を合理的に解釈して仕事をしているだけなのだ」と言う。 
それに対して、自然法(自然の掟)派の法学者たちは、現実の法律の欠陥を補うために、あるいは正義justiceや善goodnessや公平fairnessを実現するために、法律家が積極的に真の「法を発見」するのだとか、「法を創造する」のだとか、往年の名裁判官Oliver Wendell Holmes(1841-1935)判事のようなことを言う。 
これに対して、自然権派は、自分たちはそのような大それたことは言わない。現実的保守なのだ、という反論を行なう。すると自然法派は、「あなた方自然権派は、つきつめれば法律を国家の強制的命令だとするベンサム主義と同じではないか」「法律と人間との関係を真剣に考えない人々なのではないか」という疑問を投げかける。 
これら自然法派と自然権派の二大保守思想に対して、人権派=リベラル派は、総体的には自然法を認めつつも、その議論にあまり踏み込まないで、もっぱら人権に則って、貧しい人々や黒人や同性愛者や、政治的に弾圧されている人々を助けよう、という考え方で動く人々だ。 
それに対して自然法派の永遠の保守派の人々は、「その貧しい人々の人権を実現するためのお金は一体、誰が、どこから稼ぎだすのだ、できもしない相談や無理な注文をしてくれるな」「救えないものは放っておくしかない」「人間は生まれながらにして自由で平等だなどというのは、自分勝手な空想だ」と言いたげである。 
人定法派 リバータリアンってどんな人たちなの

私は、バーキアンでもロッキアンでも人権派でもベンサマイトでもなく、パラサイト。『現代アメリカ政治思想大研究』は分り易くて良いね。 


P135 positive law人定法(実定法)派である。大きな意味で自然法を認めるという点で、自然権派、人権派は自然法派に含まれると考えてよい。 
ポジティヴ・ローpositive lawというのは、法は人間が決めるのであって、神や自然のような、目に見えない幻想が決めるのではない。「法」とはこの地上の人間が定めるものであって「天」や「神」や「自然」が決めるのではないという。自然法に対する痛烈な批判から始まった考えである。 
P136 人定法派の創始者は、イギリスの18世紀の哲学者・法思想家のジェレミー・ベンサム(1748-1832)である。彼は学生時代、当時のイギリスの最高の法学者であったオックスフォード大学教授ウイリアム・ブラックストーン卿(1723-80)の法学の講義を聴いて勉強したのだが、のちにベンサムはブラックストーンの考えを嘲笑して、「どこにそのような、神とか自然の摂理とかとかいうのがあるのか」「どうやったら、人間の秩序を支えている、そのような永遠の法則なるものを見ることができるのか」と批判した。 
加えてベンサムは、ロックの自然権も批判した。生命・身体・財産の自由は人間が生まれながらにしてもつ固有の権利であるとする自然権natural rightsに対して、そんなものは「竹馬の上にくくり付けられたタワゴト」と言い放った。 
ベンサムは自分が打ち立てた重要な哲学原理である功利主義Utilitarianismに従う。功利主義とは、「人間は快楽・幸福を求め、苦痛を避け酔うとする行動する生き物である」という原理であり、この大原理の下に、人間社会は「最大多数の最大幸福」の原理に従って成り立っているとした。功利主義は現在も生きている人類史上の大思想の一つである。 
ベンサムの立場からは、したがって、法は人間が定めるのであり、何が正しくて、何が善であり、何が公平であるかは、全てこの地上の現実の人間たちがよくよく議論して決めることであって、予め神や自然の摂理が決めるのではない、となる。 
このベンサムの功利主義思想を、法哲学分野に置き換えたとき、まさしく「リーガルポジティヴィズムlegal positivism」となるのである。 
P138 こうしたベンサムの思想を体現する人々のことをベンサマイトBenthamiteと呼ぶが、彼らは温厚な永遠の保守思想を説くバーキアンBurkeanたちと争う。バーキアンの立場からは、「社会道徳とか穏健な秩序というのは、伝統の中で育まれ、より良き社会に確実に実在するものである」となる。 
この温和で健全な保守思想に対して、「何を言うか、倫理とか道徳というのは徹底的に個人的なものであり、社会を支配するものではない。それは貴族や僧侶たちが民衆に向かって偉そうに説教するときのお定まりの道具にすぎない」「何より重要なのは、経済である。社会は経済さえしっかりしていればいいいのである。余計なことにまでいちいち下らない説教を垂れて、個人を縛るな」とベンサマイトは反論する。
「何よりも秩序が大切なのだ」とか「国家が個人に優先する」とか「税金を払うのは当然の国民の義務だ」とか言うバーキアンに対して、「個人生活に余計な干渉をするんじゃない!」というのが、ベンサマイトの主張である。 
そして、現代のアメリカでこのベンサマイトの保守思想を継承し、アメリカの自衛武装開拓農民魂(パイオニア・スピリット)を強固に体現する人々こそが、まさしく、リバータリアンLibertarianと呼ばれる人々なのだ。 
このリバータリアニズムは、今や共和党の内外で一大政治勢力を築いている。それに対してバーキアンの方は、共和党内の主流派保守の立場であって、「世の中をなるべく上手い具合に纏めて、政治優先で、政治指導者たちの力によって秩序を保ってやって行った方がよい。結局その方が、経済も上手くいくのだ」とする考えである。
だからアメリカで保守本流Traditional Conservativeというのはこのバーキアンの政治的エリートたちのことであり、それは高学歴や出身家庭の裕福さに支えられて高級官僚や議員になったり、企業の役員に天下りできるような人々のことなのである。 
したがって、彼らの好きな言葉は、「温和な秩序」である。「急激な改革」ではなく「漸進的改良」である。加えて「社会倫理・道徳を大切にしよう」であり、「伝統重視」なのである。 
これに対して、ベンサマイト=ポジティヴ・ロー法人定主義の法学者たちは、社会道徳とか伝統重視ということを、絶対言わないのである。ベンサマイト=リバータリアン保守派は、共和党の連邦政府の官僚になることなど決してないような一般大衆の中の保守派の人々である。 
もし今のアメリカで、ごく普通の商店主や小企業経営者や農場主たちに自分の政治思想を語らせれば、たぶん、それはリバータリアニズムである。 
実はこのリーガル・ポジティヴィズム法人定主義の牙城は、歴史的にドイツの法学者・法律家たちなのである。彼らは天とか神とか自然が、「人間にこれこれこのように教えた」という言い方を好まない。ドイツの哲学者や法学者は昔から、徹頭徹尾ガチガチの理屈屋であるから、英米人と違ってどこまでも理屈で押し通そうとする。するとやはり、彼らは法人定主義にならざるを得ない。 

・副島隆彦を語るスレ 
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/comic/3438/1153553991/ 
この二日、中川 八洋や副島隆彦が宮台をとりあげこき下ろしているのを目にした。嫉妬心なのか? 

・中川八洋+渡部昇一コンビによる『教育問題憂国本』の面白さ。 - 荻上式BLOG 
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20070206/p1 

切ないねぇ


P146 人間はそもそも、「実際には自由でも平等でもない」生き物である。25年間住宅ローンを払い続けなければ自分の住居さえ手に入らない人と、生まれた時から資産のある人の生活上の差を、縮めることはできてもなくすことはできないだろう。あるいは、会社の従業員である人々と、企業の経営者である人々との対立を消し去ることはできない。そしてこの「貧富の差」や「社会階級」を一気に消滅させようとする理想主義の運動が、これまでに、この地上でどれほどの政治的惨劇と大量殺人を招いてきたことか。 
では、自然法のバーキアンの保守思想と、現実の政治体制を実務的に守り抜くべきだという、現実保守の自然権派(ロッキアン)との違いについて、再度考えてみよう。 
自然法と自然権では、生き方、人生の身の処し方が、やはり相当に異なる。現実保守の自然権派は現実政治の脂ぎった権力闘争を実際に肯定し、それに参加し、その渦の中で自分の立身出世を考える。それに対して、自然法派は、「現実の汚い政治」を大変嫌って、それらに近づこうとしない。自然法派はできることなら山の中にこもって隠者となって生きたい人々なのである。だから自然法派は、「永遠の相の下の」保守思想なのである。 
では、自然法派とポジティヴ・ロー人定法の違いはどうだろうか。人定法派(ベンサマイト=リバータリアン)は、中小企業の経営者や独立自営農民の思想であるから、やはり自然法よりももっと強固に、「人間にどうしようもない現状は、やはりそのまま放っておくしかない」「自分の生活を守るのが精一杯であり、自分の生活が最優先する」「国家や社会が自分にメシを喰わせてくれるわけではない、その逆だ」という態度をとる。 
P147 すなわち、彼らは自力救済を愛するのであり、自助努力の人々である。はじめから社会や他人をアテにする人間を嫌う。人間の救済というのはそう簡単にできることではなく、かつあり得ないことだ、という点ではバーキアンと一致する。バーキアンと異なるのは、そのことをためらわずにはっきり言うことである。「自分たちには余裕がないから、飢え苦しんでいる人々が世界中にたくさんいるとしても、救えないものは救えないのだ」ということを公言し、かつ、そのことで少しも悪びれないことが、このポジティヴ・ロー=リバータリアン保守派の強さである。 
だから日本には、元祖リバータリアン政治家のバリー・ゴールドウォーター上院議員などは、リベラル派からすれば冷酷非情の強欲人間のように伝わっている。リバータリアンたちの生活実感は、開拓農民として苦しい人生経験の中で培われた、旱魃のために作物が穫れず、飢えに苦しむこともあったアメリカ国民のことを、私たちはあまり知らない。リバータリアンの原型は、西部開拓時代に、インディアンに襲われて惨殺された仲間の開拓農民たちを可哀想と思っても、それを沈着冷静に見つめ、さらに自分の家の防備を固めることに気を配る開拓農民の姿である。 
「白人が殺されえた」といって、それを新聞記事にして大宣伝をして憤慨悲嘆してみせるような、大都市ニューヨークの偽善者たちとは違うのである。この人権派のヒューマニストたちが次に何を言い出すかは、容易に分る。「その犯罪者のインディアンどもを逮捕して徹底的に処罰するために、騎兵隊を派遣しろ」である。ここにはインディアンの立場はかけらもない。そして、インディアンのさらに外側に存在するアジア人、日本人への視点がどのようなものなのか、容易に分るのだ。
「世界のどこそこの紛争地帯で、難民となって飢えて苦しんでいる人々が何十万人、何百万人います。さあ、彼らを助けましょう」というようなことを、テレビの画面から視聴者に向かって説く人々の中にこそ、偽善を観なければいけない時代がきている。彼らテレビキャスターたち自身はは、情報産業における情報商品の伝達者にすぎない。「どこどこで人々が飢えている」ことを情報商品として、次々に売りさばいているだけの人々である。「苦しんでいる人々をなぜ助けないのですか」という理屈で迫ってくる人間たちの中に、正義の仮面をかぶった真の悪を見ないわけにはゆかない。 
P148 「まずあんたが行けよ」と冷めた目をした今の若者なら言うだろう。日本人にも、これらの偽善的なヒューマニズムの脅迫に屈しない「反福祉・反税金・反国家」のリバータリアン保守派的な人々は、歴史的に存在したのである。あれこれの人類博愛理論の本質を見抜いてその悪を良く知っているという意味では、自然法派の保守伝統思想(バーキアン)と、ポジティヴロー派のリバータリアン保守派(ベンサマイト)の思想は、いい勝負であり、共通している。 
しかし、リバータリアンの方が、庶民の目としてバーキアンよりもはっきりと全ての事態を見抜いているというべきだろう。リバータリアン派は、自然法の保守思想の隠遁生活を好む仙人たちと違って現実の生活で苦労している生活保守派であるから、道端に倒れている飲んだくれの浮浪者を救け起こそうなどとはしない、ただ通り過ぎるだけだ。 
ところが、これらに対して、自然権派の現実的官僚的保守主義者(ロッキアン)たちは、もっと恐るべき人々である。彼らは自分たちが握り締めている現実の政治権力を維持するために、あろうことか、人権派と歴史的な裏取引をするのである。人権派=リベラル派(かつ、旧来の社会主義者信奉者たち)の勢力と妥協して野合し、彼らをうまい具合に抱き込み、彼らの「福祉、福祉、何が何でも福祉」「福祉のために国家が存在するのだ」(福祉国家論)に迎合せざるを得ないように装って、自然権派と人権派の利権大連合を形成する。「ばらまき福祉」と「海外援助」と、その結果としての「この際税金を取れるだけ取ろう」という、役人根性丸出しの行動法則に従う。人権派からすれば、「もっとお金持ちと大企業に増税せよ」である。自然権派と人権派は、結局、野合するのである。 
日本の55年体制が自民党と社会党の露骨な野合内閣につながったのも、この考えに立つなら説明がつく。自然権派も人権派も、官僚たちは各種財団や福祉施設にポストを作って自分の生活を救うために天下りする、天下り役人の群れと化す。すなわち、増税主義者になってゆく。国家財政が傾こうが、民間経済が疲弊しようが、おかまいなしである。福祉が何よりも大切という人は、まず自らが奔走して税金をたくさん払おうとする人でなければならないはずなのに、である。 

2012年10月9日火曜日

実験する前に論文を書け、あるいは、無駄を認めよ

山中教授ノーベル賞受賞記念。mixi拙日記2008年01月11日コピペ。

先日、テレビ(爆笑問題のニッポンの教養)で、野矢茂樹という哲学科の先生(親しみ易い感じで私は好き)が、(役に立たない研究を認めよという意味?で)「無駄の価値を認めよう」って言ったら「無駄の価値を認めたら無駄じゃないじゃん」と突っ込まれてたけど、ネタだったのか。実利主義の発想で実利主義を否定していた。 

物質は有限なのでやはり無駄は良くない。思考は無限なので無駄という言葉は意味をなさない。でも、時間には限りがあるので、やはり無駄な思考そして行動はある。「実験する前に論文を書け」というのはそういう意味なのか。科学は哲学と違ってお金がかかるから、税金という有限のお金を使う場合、どうしても費用効果が問題になる。結局、アメリカと日本の違いは、金力の違いなのか。でも、なんだかんだいっても、「日本は凄い」という思いは変わらない。 

http://www.pref.yamagata.jp/business/information/6050002publicdocument200602244681750167.html 
◆ 記念講演 石坂公成氏 
「科学者の本性と科学技術を支えるピア・レビュー・システム」-(抄)- 

一部、メモ。 

【科学者の本性について】 
○ サイエンスの真実はネイチャーが決めてくれるものであるから、研究者は、ネイチャーのからくりを知るために研究をしている、あるいはからくりを利用し新しいものを作ろうとしている。サイエンスの価値は、小説や芸術と違い、批評家や大衆の評価によって決まるものではない。 
○ 研究は常識に合わないことを見つけるのが目的であるから、プロの研究者であるためには、「サイエンスに対して愚直であること」、「自分に対して正直であること」が必要である。結果がその時代の通説から外れても、公表すべきである。 
○ アメリカの科学者たちは、他人の研究計画を審査するために大変なエネルギーを費やしている。それは、自分の専門領域の学問の将来に最も大切であると思われる研究を自分たちの手で選択することによって、サイエンスの発展を維持していこうという責任感やプリビリッジの現れである。 
○ ネイチャーを相手にしている研究者は、行政官や政治家と違った人生観や社会観を持っているのが普通である。そのため、同じ専門の科学者によるピア・レビューが是非とも必要である。 

【ピア・レビュー・システムについて】 
○ アメリカのリサーチ・グラント・システムは、サイエンティストの価値観をサイエンスの発展に反映させるようなシステムである。日本でいう競争的研究資金支援システムであるが、これはまさに科学者の価値観に依存するシステムといえる。 
○ このリサーチ・グラント・システムは、独創的な考えやユニークな研究計画をその専門の一流の科学者が選択することによって研究費を配分するという方法である。このシステムで大切なことは、それぞれの申請書が、適切な申請者と同じ専門領域の科学者により詳細な研究計画が審査され、学問の将来に必要な優れた研究が選ばれることである。 
○ このシステムがアメリカで定着し拡充された理由は、研究者の総意に基づく研究が政府の課題を決めて行わせる研究よりも、はるかに成果があがることが実証されたからである。また、このシステムは、斬新なアプローチをする若手研究者を国内のみならず国外からもリクルートするという結果を招いたのである。 
○ アメリカのリサーチ・グラント・システムは、日本と比較し根本的な違いがある。一番大きな違いは、申請書の詳細な実験計画の記載である。つまり、研究計画は実験を行う前に書かれた総説である。日本の研究申請書は、過去の研究業績を載せて将来の研究計画は1 ページくらい、つまり設計図がないのである。 

■関連 
(2012.10.10/04:22追記)パワー、セックス、自殺
http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/04/blog-post.html

京大の山中伸弥教授かっこよす - おこじょの日記 
http://d.hatena.ne.jp/o-kojo2/20071121 
日本の科学行政に対する批判の記事なんか読んで見ると、官僚は日本の未来より自分の未来により関心があるようだ。 

それぞれの事情って感じ。そういう意味で、国会答弁が面白い。 

第159回国会 文部科学委員会 第22号 平成十六年 
文部科学行政の基本施策に関する件について調査 
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/159/0096/15905260096022c.html  
小柴プロジェクト(ノーベル賞)と和田プロジェクト(アイデアをアメリカに奪われた)の違いはどういう点にあるのか、日本の複雑な事情が語られている。それにしても、加藤紘一議員やるな。 


(2012.10.09./17:34追記)【ノーベル賞受賞】山中教授 事業仕分けを批判【2009年】
http://www.youtube.com/watch?v=zCfpxf8qFEs


(2012.10.09./22:20追記)科学者の道「ばかげてる」 受賞決定者、通知表で酷評
http://sankei.jp.msn.com/world/news/121009/erp12100920550004-n1.htm

2012.10.9 20:48
ジョン・ガードン英ケンブリッジ大名誉教授(AP=共同)
ジョン・ガードン英ケンブリッジ大名誉教授(AP=共同)
 科学者を目指すのはばかげた考え-。英メディアは9日、山中伸弥京都大教授(50)と共に2012年ノーベル医学生理学賞の受賞が決まった英ケンブリッジ大のジョン・ガードン名誉教授(79)が、15歳当時通っていた英名門のイートン校の通知表で酷評されていたと伝えた。
 「破滅的な学期だった」のひと言で始まる1949年夏学期の通知表で担当教師は、ガードン氏の学業について「満足するには程遠く、リポートの中には50点中2点というものもあった」と指摘。「(教師の)言うことを聞かず、自分のやり方に固執する」とした。
 将来の道も「科学者を目指すと承知しているが、ばかげた考えだ。本人にとっても教える側にとっても完全な時間の無駄」と書き、通知表を締めくくった。
 この年のガードン氏の生物学の成績は250人中、最下位。(共同)

2012年7月27日金曜日

印象派という革命

ghoti(@ghoti_sousama)/「印象派という革命」の検索結果 - Twilog(tw)

P46日本人が印象派絵画が好きな理由。日本人は何も貨幣価値だけで印象派絵画が好きなのではなく、日本美術には伝統的に花鳥風月というテーマがあると同時に、浮世絵には風景や社会の風俗を描いたものが多かった。

その結果、多くが非キリスト教徒であるために聖書に精通せず、そして古典文学(ギリシャ・ローマ神話)にも親しんでいない日本人にとって、風景や都会の風俗、そして静物をテーマにしている印象派絵画は、とても親しみやすいものなのである。

P51印象派が世に出てきた時代は、美術アカデミー、官立美術学校、そしてサロン・ド・パリ(以下サロン、官展)という体制に沿わないことには、画家としての成功が望めない時代だった。現代の画家のように貸し画廊で個展を開き自分の作品を「個性」や「創造性の自由」といった言葉で正当化できる時代でもなかったのだ。

そのうえ、幸か不幸か現代の自称も含めた芸術家たちは、印象派が直面したようなジャーナリズムの激しい批判にさらされることもほとんどないのだ。貸し画廊という商売が成り立つのは、自称「芸術家」が世の中にいかに多く存在するかがその背景としてある。

(6感想)個性を認めろじゃなくて個性を認めさせなければならない時代だったのだな。自由が認められている現代社会における自由は「なんちゃって自由」だな。本当の自由は自由が認められない社会においてのみ存在するということなのかなと(tw)
P54芸術家と職人。芸術家は知的な活動を行うエリートであるという概念に対し、職人は肉体労働者と見なされていたのである。そして、器用に制作された絵画や彫刻を工芸品と見なすならば、制作した人物の知性や理性が作品に反映されているものが芸術品と見なされた。

芸術先進国イタリアでは、16世紀を迎える頃にはすでに芸術家および芸術品という概念が生まれ、それらは職人および工芸品という概念から切り離されていた。フランスでは(略)イタリアの芸術運動を輸入することには熱心だった(略)。芸術家という概念は広まらず、

P52王立絵画・彫刻アカデミーの誕生。フランスにおける美術アカデミーの歴史は1648年に始まった。(略)パリには他のヨーロッパの都市同様にすでに同業者組合である「聖ルカ・アカデミー」が存在した。歴史は古く(略)1391年が(略)創設年とされている。

P55同業者組合(聖ルカ・アカデミー)の実情を知らなければ、後発の王立絵画・彫刻アカデミーの革命性は理解できない。(略)同業者組合では、作品販売における競合を調整し、品質の保持や互助活動も管理していた。

ヨーロッパのどの街でも同業者組合があれば、その街の組合に加入していないとその場所では仕事ができなかったのだ。そして日本の年季奉公と違い、弟子が親方に修業代や、住み込みの場合は食費等支払わなければならなかった。

その結果、他人ではなく家族や親戚内で親方・弟子関係を結ぶことが多くなっていった。実際に画家の人間関係を見渡すと、非常に濃密なのである。日本でも何代にもわたる陶芸家の一族があるように、洋の東西を問わず職人社会ではよくある話なのだ。

同業者組合では当然ながら仲間意識も強く、よそ者に対して排他的になることは想像に難くない。実際、このパリの同業者組合は加入者の数を制限しただけでなく、パリ市民や親方の子弟には組合加入料を安く設定し、反対に地方出身者や縁故のないものには高く設定した。

P56画家が組合に属さず仕事をしたいならば、王族の宮廷画家になるか、または定期市場で販売するか、もしくは僧院やパリの城壁の外などパリ警察権の外に住んで仕事をする他なかったのである。

そのため、1674年に城壁外区からパリの市街区域に入れられるまでは郊外とみなされたサン・ジェルマン・デ・プレに組合員ではない画家たちが存在したのだ。このような縁故重視の内情は、結果として作品の質の低下を招くことになった。

一方、「国王付きの画家」などの宮廷画家も縁故による世襲化を招いた結果、品質の低下へとつながっていったのである。17世紀のフランスは、当然のことながら階級社会であった。「第三身分」である平民の階層は、学者すなわちち知識人が頂点をなし、

その下に財務職保持者、そして医者や薬剤師などの専門職がきて、一番下の商人までが現代でいうホワイトカラーを構成していた。その下に、ブルーカラー(略)農場経営者がこのグループでは一番上の階層に属し、その下に画家や彫刻家が属する職人階級がきて、

P57いわゆるブルーカラーは、生活のために手を用いて仕事をする人々と考えられたため、職人階級に属する画家や彫刻家はエリートとはかけ離れた存在だったのである。ブルジョワ階級の人間が画家や彫刻家になることは、社会的に不名誉なこととみなされていたくらいに階級意識が強い時代だったのだ。

(略)その結果、職人芸と見なされていた自分の職業が、何としても高尚な「自由学芸」のひとつとして認識されるよう運動を開始したのである。そして、自意識を高めた彼らが手本として目を向けたのが、芸術先進国のイタリアだった。

「神の如きミケランジェロ」と讃えられ、芸術家という概念を確立した一人であるミケランジェロ、この天才を崇拝したジョルジュ・ヴァザーリ(1511-74)は、1550年に美術史の原点ともいうべき『芸術家列伝』を執筆したことで知られている。

そのヴァザーリが1563年にフィレンツェで創設したのがアッカデミア・デル・ディゼーニョだ。そして1571年以降、このアッカデミアに属する画家と彫刻家は、フィレンツェで仕事をするために義務づけられていた同業者組合に入会する必要がなくなったのである。

一方ローマでは、1577年にアッカデミア・ディ・サン・ルカ(聖ルカ・アカデミー)が創設され、画家や彫刻家の知的側面の向上と、彼らの職人から芸術家への社会的地位の向上が図られた。

P58ルネサンス芸術がイタリアからフランスに取り入れられたように、職人の同業者組合ではなく知性を重んじる文化的なアカデミーという概念も、イタリアからフランスに渡ってきたのである。

こうして、エリート意識を持ち始めた画家や彫刻家が、職人の身分に属する同業者と区別するためにルイ14世(在位1643-1715)に承認を願って創設したのが王立絵画・彫刻アカデミーだった。

このアカデミーで中心人物となり、影響力を発揮したのがシャルル・ル・ブラン(1619-90)である。ニコラ・プッサン(1594-1665)の押しかけ弟子だった彼は、美術理論だけでなく画家の理想像としてもブッサンを崇めた。その結果、ニコラ・プッサンの存在はフランス美術の「規範」となったのである。

P59(略)プッサンは、審美眼がなく教養にも欠ける大衆に迎合することをよしとせず、教会の祭壇画のような公的な仕事をできるだけ避け、裕福で教養のある上流階級の顧客のための私的な作品を制作するようにしていった。

その結果、単純に目だけを楽しませるような作品ではなく、知性と理性に訴えて感動させる作品を描くことができたのだ。そして、「主題は高貴でなければならない」と考えたプッサンは、大衆は単純に色彩に魅了されると見なし、それを俗悪と考えた。

そのため彼は絵画制作において、感覚に訴える色彩ではなく、知性と理性に訴えることができる「フォルムと構成」を重視したのである。こうしたプッサン の制作姿勢および理論が、アカデミーの公的な美の規範、すなわちフランスの古典主義となったのである。

アカデミーのエリート意識は、アカデミー会員が作品の販売を携わることを厳しく禁じた。貴族が商売をしないことと同じという考え方があった。実際に、ル・ブランは1662年にはルイ14世によって貴族として叙任され、年金(恩賜金)を受け取る身分になっている。

こうして王立絵画・彫刻アカデミーが、組織的に同業者組合(聖ルカ・アカデミー)との差別化を図った結果、当時の階級社会において卑しい身分と見なされた画家から、一気に第三身分での頂点に立つ知識人となり、高級官僚にもなったのだ。

P61(略)アカデミーでの付属美術学校では理論と実践において体系化され、規則に則った厳格な教育プログラムが編成された。このルブランが編成した職人ではなく芸術家を養成するための教育プログラムは、

1768年にロンドンで創設された王立アカデミー・オブ・アートをはじめとする他の美術アカデミーや、現代の美術大学や美術学校の手本にもなったのである。(略)

P63修業ではなく教育によって、職人階級との差別化を図ったのだ。そして同時に、画家たちをさまざまな拘束があった同業者組合から解放もしたのである。王立絵画・彫刻アカデミーに対しても、プッサンの美術理論に対しても時代が味方をした。
(36感想)面白い。感覚より知性を色彩よりフォルムと構成を重視するフランス古典主義の成立が、職人の地位向上のためであって、結果的に同業者組合の様々な拘束から自由を解放したというのは面白い。近代の夜明けの出来事として面白い(tw)。
P62 1661年にルイ14世の親政が始まると、フランスは絶対王政を確固たるものにするために、ルイ14世に仕えたジャン=バティスト=コルベール(1619-83)は美術も中央集権化することにしたのである。(略)ルブラン会長の下に確立したのがプッサンの美術理論を基にしたフランス古典主義だった(略)それから2世紀を経た19世紀後半においてもこの古典主義がフランスの公的な様式として通っていたことを考えるといかに印象派が前衛的だったかが想像できるだろう。

ニコラ・プッサンを知らずして、フランスの美は語れないのだ。(略)P63ルーヴル美術館など存在せず、イタリアでの美術学校が絶対視されていたため、コルベールとル・ブランは1666年にローマに支部「フランス・アカデミー」を創設した。

コンクールで「ローマ賞」を受賞した優秀な生徒を国費でローマに留学させ、古代美術や古典的絵画を模写させて学ばせたのである。そして帰国後は(略)アカデミーへの入会申請作品を提出し、アカデミー会員による厳しい審査の後に晴れて正会員になることができたのだ。

作品の評価にしても、販売が目的である同業者組合と違い、アカデミーにおいては売れるか売れないかとか、大衆に受けるか受けないかではない。文化人貴族であり、知識人であるアカデミー会員により、美術理論に基づく規範に則して裁定されたのである。

主題に関してもアカデミーによる公的な格付けが生まれた。その序列の頂点に立つのは、幅広い知識を要求され高貴と見なされた「歴史画」だった。そして次に格が高いとされたのが「肖像画」で、その下に順に「風俗画」「風景画」「静物画」となたのである。

当然、作品の価格もこれに準じた。このアカデミーによる歴史画至上主義は(略)19世紀においても、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)となっても、女性の入学を1897年まで拒んだのだのである。

P64主題の格にも身分にもこだわったアカデミーは、会員が作品を販売することは職人階級に属する卑しむべきことと見なした。1777年には新規約で、会員の作品販売は厳しく禁じられたのである。(略)しかし、画家である限り作品を売らなくてはならない。

1667年以降、正会員と準会員の作品を展示する展覧会を行うことになった。第一回の会場はパレ・ロワイヤル、1725年にはルーヴル宮のサロン・カレ(方形の間)で開かれ、そしてこの部屋の名前からアカデミーの展覧会が「サロン」と呼ばれることになった。

(略)肝心の値段に関しても、価格コントロールが目的のひとつである同業者組合では誰の作品であろうと変わらない価格設定であったが、アカデミー会員の場合はその画家に付随する名声によって報酬も決められるようになった。

ちなみにフランスでは18世紀になり、ブルジョワ層の拡大によって絵画を専門に扱う画商が誕生した。しかし、ファッションの世界でもオートクチュールとプレタポルテでは格も価格も購買層も違うように、

アカデミー会員にとって店先で作品を陳列して販売することは職人的であり恥ずかしいことで、決して貴族的でも高貴なこととも見なされなかった。そして画商は同業者組合には入れたが、アカデミーには入れなかったのである。「第二身分」である貴族階級においても、

貴族が画商のように商売に手を出すと貴族の身分を失ったのだが、王立絵画・彫刻アカデミーに通うことはできたのだ。このように芸術家としての社会的地位向上を望んだ結果、アカデミー会員に蓄積されていったエリート意識が、

19世紀後半においても前衛的な印象派たちを苦しめることになった。アカデミー会員にしてみれば、フランス古典主義を固持すること、イコール知識人兼芸術家としての社会的ステータスを維持することになったからである。

P65 17世紀末になると、アカデミー会員の間でプッサンを規範とするフランス古典主義に異を唱えるグループが出てきた。「プッサン派」に対して「ルーベンス派」と呼ばれるグループである。ヴェネツィア派の巨匠たちの影響を受け、豊麗な色彩表現で画面を構成した「王たちの画家、画家たちの王」ことピーテル・パウル・ルーベンスを規範とするグループである。

P66理性に訴えるデッサンのほうが感覚に訴える色彩よりも高尚だとするプッサン派に対して、ルーベンス派は自然に忠実な色彩は万人に対して魅力的であると主張したのである。ルーベンス派は、理性的なデッサンは専門家にしか受けないと信じたのだ。理性vs感性、デザインvs色彩の闘いであった。
(54感想)17世紀末の状況を「プッサン派」vs「ルーベンス派」、理性vs感性、デザインvs色彩、とオッカムの剃刀で斬ってくれたのは気持ちがいい。モヤモヤを簡潔に示してくれた著者に感謝。古典主義、バロック、ロココ、…印象派の流れが把握できたつもり\(^o^)/(tw)
そしてルーベンス派の主張どおり、18世紀になるとパリのブルジョワジーに人気を博し、その後は王侯貴族までも魅了したロココ絵画が生まれたのである。その創設者ともいうべき画家が、ルーベンスと同じフランドル出身で、この同郷の先輩画家やヴェネツィア派の影響を受けたジャン=アントワース・ヴァトーだった。ロココ絵画の特徴は、ヴァトーの「雅宴画」に象徴されるように恋愛の世界がメインテーマである。(略)

18世紀は色彩と感性が勝利したロココ絵画の時代がしばらく続くことになるのである。フランス美術史は、感性豊かで恋愛至上主義の時代を経験したのである。 しかし、なぜロココ絵画が宮廷までも席巻することができたのであろうか。

1715年にルイ14世が亡くなった祭、王位を継いだのは5歳の曾孫のルイ15世(在位1715-74)だった。その摂政として幼王を補佐したのが、ルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世(1674-1723)だ。オルレアン公は、幼いルイ15世の健康のためという名目で、宮廷を自分が嫌いだったヴェルサイユ宮殿からパリに移してしまったのである。その結果、宮廷人たちも先王時代の息が詰まるようなヴェルサイユ宮殿での生活から、パリのブルジョワ的な快適で私的な生活に喜びを見いだした。

P67 1723年にオルレアン公の摂政時代は終わり、宮廷はヴェルサイユに戻った。しかし、ルイ15世もその後継者で孫のルイ16世(在位1774-92)も、ルイ14世のように絶対的な権力で美術の流れまで統制しようとはしなかったうえ、18世紀に台頭してきたパリのブルジョワジーの影響もあり、ロココ絵画の時代が長らく続くことになった。

つまり17世紀が王国を中心とした男性的な文化だったのに対し、18世紀は貴族やブルジョワジーを中心とした女性的な文化となったのだ。宮廷も美術も感性豊かな時代、すなわち女性的な時代だったのである。しかし、いくらフランス古典主義(デッサン派)がロココ絵画(色彩派)の絵に隠れたかのように映ったとしても、18世紀においても王立絵画・彫刻アカデミーが権力を失うことはなく、美術界および社会において絶対的な権力を保っていた。

その頂点に立っていたのが「王室造営物総監」である。アカデミーの保護者が王室造営物総監であり、フランスの宮殿や城だけでなく庭園から美術品、そして家具までも取り仕切っていたのである。いわば、王室造営物総監は、フランス美術界の絶対君主なのであった。

1737年以降に定期的に開催されるようになったサロン(宮展)は、印象派の時代には公募制であったが、旧体制時代にはアカデミー会員と準会員に限られていた。前述したように、「文化人貴族」であるアカデミー会員にとってふさわしくない卑しむべき行為とされた「商売」に携わったものは、会員にはなれなかったため、世間に知られるためにはアカデミー入りすることが何よりも大切だったのだ。

P68 18世紀に台頭してきた新興ブルジョワジーにとって、現代と同じように成り上がりの地位から脱却するには、絵画収集が最も効果的なメソッドであったため、「よき趣味」を伝える媒体として評論家と画商も社会に登場してきたのである。

美術界において絶対的な権力を保持したアカデミーのおかげで、歴史画を頂点とした主題のヒエラルキーも守られてきたのだが、新興ブルジョワジーの間では古典的な教養を必要としない格下と見なされた風俗画や静物画の人気が浸透していったのである。そして肖像画においても、18世紀における絵画購買層の拡大により、王侯貴族向けの豪華な全身像だけでなく半身像や子供の肖像も多く描かれるよになるのだ。

しかし一方で、「見立て肖像画」や「寓意的肖像画」と呼ばれる歴史画風に演出を施した肖像画の人気は、当時の美術界における歴史画至上主義と、歴史画家に伴う名誉と特権をうかがわせる。このことは、アカデミーが保持していた権力や影響力の何よりの証なのである。

ヴァトーの繊細な叙情性を漂わせた雅宴画によって幕が開いたロココ絵画の時代も、時を経てブーシェやフラゴナールの時代になると、享楽性や官能性が強調されるようになった。

P69そして、ブーシェの庇護者(パトロン)だったルイ15世の公認の寵姫ポンパドゥール夫人(1721-64)も世を去った頃、フランスに新たな芸術様式である新古典主義が芽生え始めることになる。その発端となったのが、皮肉にもロココ芸術の絶大な庇護者だったポンパドゥール夫人の実の弟によってだった。

夫人の弟マリニ公爵アベル・フランソワ・ド・ヴァンディエール(1727-81)は、姉からイタリアで芸術への造詣を深めるように命じられ、1749年から2年にわたってイタリアに滞在した。そして、帰国後には、王室造営物総監の役職に就いたのだが、フランス美術界の絶対君主となったマリニ総監のイタリア留学の成果は、フランスにロココ様式に次いで新古典主義を広める結果となったのである。

18世紀後半に新古典主義が流行し始めた背景には、イタリアで1727年にヘルクラネイムと1748年にポンペイの発掘が始まり、古代の文化が一気に目の前に広がったことにある。そしてこの世紀の大発見は、考古学や廃墟ブームへと発展していったのだ。こうした背景もあり、最初にフランスで新古典主義が芸術様式として現れたのは建築だった。ポンパドドゥール夫人のために建てられたプチ・トリアノン宮や、パリのパンテオンがこの時代の新古典主義建築の代表的なものである。

古代ギリシャ・ローマの文化が、建築および彫刻に直接的な影響を与えやすいことは容易に想像ができるだろう。ちなみに庭園に関しては、18世紀にはフランス式の幾何学式大庭園様式から風景式庭園の時代となる。イギリス式庭園ともよばれるように、風景式庭園はイギリス発祥の庭園様式である。その着想源となったのが、ニコラ・プッサンのローマの親友であったロレーヌ出身の画家クロード・ロランの作品なのだ。

P70 プッサン同様に、フランス古典主義の立役者となったクロード・ロランの影響力は絶大で、P71 19世紀になってもアカデミーにとって「風景画の規範はクロード・ロラン」だったのだ。そのことは、近代的な価値観とアプローチで風景を描いた印象派への反動として表れることになる。

本来、フランス絵画における風景画の規範は、同じクロードでも印象派のモネではなくロランなのだ。クロード・ロランが描いた理想的風景は、それを大邸宅の庭に再現した風景式庭園としてイギリスで流行することとなった。時代は考古学・廃墟ブームということもあり、クロード・ロランの絵に描かれているように、ご丁寧にもローマ風の神殿や橋、または人工の廃墟まで庭園に再現したのである。

そして、この新たな庭園様式の流行はイギリスだけにとどまらず、ヨーロッパ大陸までも飛び火して英国式庭園として知られるようになる。フランスでは、マリー・アントワネットが、トリアノンの庭園もこの最新の庭園様式に造り替えさせることになる。

ポンパドゥール夫人をロココ様式を象徴するヒロインとするならば、この悲劇の王妃マリー・アントワネットは新古典主義を象徴するヒロインというべきであろう。事実、新古典主義の建築や家具は、彼女の夫の名前をとってルイ16世様式と呼ばれるからである。

絵画に関しては、ルイ15世時代の宮廷人はロココ絵画への嗜好が根強かったため、新古典主義の時代を本格的に迎えるのはルイ16世時代になってからである。1774年のルイ16世の即位から、フランス革命勃発の1789年まで、時代は啓蒙主義の発展で合理主義への傾倒をますます深めていった。

P72そしてドイツの美術史家ヨハン・ヨアキム・ヴィンケルマン(1717-1768)が、その著書『ギリシャ美術史模倣論』(1755)と『古代美術史』(1764)において、古代ギリシャの芸術こそが時代や民族を超越し、万人にとって普遍的な「理想美」であると説き、その美術理論は華美な装飾性と耽美性を誇ったロココ様式へのアンチテーゼとなった。そして、それは同時にヴィンケルマンに共鳴した画家たちにとって、新古典主義の美術理論の中軸となったのである。こうして感性豊かなロココ様式に対する反動から、合理的な新古典主義の時代となっていったのだ。

(略)プッサンの後継者となったのが、ダヴィッドだった。(略)

P73 1784年にはアカデミーの会員になったダヴィッドは、古代ローマを舞台にした歴史画『ホラティウス兄弟の誓い』(1785)を発表し、私情を捨てて国家のために忠誠を誓う兄弟たちを描いて名声を博したのである。ロココ絵画の恋愛至上主義から離れて、英雄的な愛国心を主題にした作品だ。作品の精神的な枢軸となっていたのは、感性ではなく理性であった。

崇高な精神を造形化したこの作品は、プッサンの絵画世界を彷彿とさせる厳格な画面構成や明確なデッサンによって、新古典主義の幕開けを告げていたのだ。こうしてフランス絵画は、その規範であるプッサンの古典主義に回帰したのだった。

1789年に勃発したフランス革命がフランス社会を激変させたように、反王権の革命主義者であったダヴィッドによって、王立絵画・彫刻アカデミーも時代に合わせた改革を迫られることになった。(略)結局、アカデミー自体は1795年に改革され、絵画・彫刻アカデミーと名前を変えることになる。そして、ブルボン家による王政復古後の1816年にフランス学士院の一部となり、

P74 芸術系の旧王立アカデミーであった音楽アカデミーや建築アカデミーと統合され、フランス美術アカデミーとして再出発したのだ。そして付属美術学校も建築学校と合併し、1819年に官立美術学校に改称したのである。

(略)ロベスピエール(1758-94)が失脚した後、ダヴィッド自身はリュクサンブール宮殿に4ヶ月ほど幽閉されてしまう。釈放後、改革されたアカデミーの会員だった彼は、ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)に見出され、1804年にナポレオンが皇帝に即位すると皇帝首席画家の地位を獲得した。

古代ローマの理性と倫理観を理想に掲げた革命主義者たちにとってだけでなく、自らを古代ローマ皇帝になぞらえ、帝政の権威を高めようとするナポレオンにとっても、古代ローマの理想美を着想源とするダヴィッドの新古典主義こそがふさわしい芸術様式だったのである。

しかし、ナポレオン失脚後、ルイ16世の弟ルイ18世(在位1814-24)による王政復古が起こると、革命後にルイ16世の処刑に賛成票を投じていたダヴィッドはその罪を問われ、ブリュッセルに亡命、そして、1825年に同地にて客死したのだ。(略)弟子のアングルが新古典主義を牽引していくことになる。

P75 アングルは長期にわたるイタリア滞在後、1824年にフランスに帰国、そして、サロンに出品した『ルイ13世の誓顧』(1824)の大成功で名声を博した。以後フランス美術アカデミーの会員として、官立美術学校の教授として、そしてプッサンとダヴィッドの後継者として、彼は新古典主義をフランス絵画の公式の様式として指導していったのである。

2012年7月22日日曜日

つくり風流(みやび)

 また桜の季節がめぐってきました。桜の花が咲くというのは、なにか浮き浮きしますね。なんとなくうれしいものです。「花開く」というと念願が成就したり、一人前として認められることの象徴のように言われます。
 特に満開の桜は爽快な匂いに包まれることもあり、ハッピーになりますね。花見はなんといっても満開の時がいいに決まっています。ところが世の中にはひねくれ者もいるもので、兼好法師は『徒然草』第一三七段で「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と言っています。
本居宣長は『玉勝間』「四の巻」でこれ槍玉に挙げています。「花はさかりに、月はくまなきを」見たいのが自然の人情なのに、無理にはかない無常を進んで味わうことを風流と思うのは、人の真情に逆らった「つくり風流(みやび)」だと批判したのです。

 たしかに兼好法師の感性には素直じゃないところがあるかもしれませんが、宣長は素直すぎて深みがないですね。兼好の言わんとしていることから学ぼうとし ていません。兼好は風情というのは花が咲き誇っているときだけでなく、散ってしまってそれを惜しむ気持ちからも感じられるものだというのです。引用しま しょうか。
花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛(いくへ)知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほ どの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書け るは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所 なし」などは言ふめる。
(訳)花は満開のときに、月は満月のときだけ見るものでしょうか。雨を眺めながら月を恋しいと想い、カーテンを降ろして春が終わっていくのを見届けないの も、(つらくて見れない切ない気持が察せられるので)それはそれであわれで情緒があるものです。まだ蕾の梢や花びらが散って庭に敷き詰められている様子な ども、見所が多いものです。歌の詞書にも「花見にまいりましたが、とっくに散ってしまっていたので」とも、「用事があっていけませんでした」などと書いて あるのは、(その惜しむ気持が伝わってきますので)「花を見て」と言うのと劣らず風情が感じられます。花が散り、月が欠けていくのを(切なく思う気持を) 慕う習いは当然のことなのですが、中には、この気持ちがわからない人がいて「この枝も、あの枝も、花が散ってしまった。もはや、花見はできない」などとい うようです。
 満開とほとんど散ってしまった桜を見比べてどちらが華麗かと言われれば、満開に決まっているでしょうが、そんなことではないのです。桜が散ってしまうこ とを惜しむ心があって、その心で見るから桜にひとしお風情を感じるということです。月も有明の月がよく歌われますが、どんどん欠けて残り少なくなっている 月ですね。夜明け前にやっと出るのですが、欠けている月を待ちわびるのです。
    名残の桜               有明の月
       IMG_6114.jpg
 滅び行くものを惜しむ気持がとても切ないわけです。それで余計に風情が深まるということです。宣長は、そんな哀しい気持をわざわざ進んで味わおうとする のは真情ではないと批判しているのです。つまり宣長は、兼好法師の美意識に仏教的無常観を感じて反発しているのです。宣長は仏教が入る以前の日本人の真情 に迫りたいと願っていたのです。
 無常ということは常でないことつまり変化して滅んでいくということですね。仏教は、人間の自我を含めて、すべての存在は滅びないような不滅の実体をもっ ていないとみなします。だから花も散るし、月も欠けるのです。その滅んでいく姿を見ると、己の体も自我も無常の定めに従って滅んでいくの を実感させられます。それで花や月を見てわが身のはかなさが身にしみるわけですね。だから風情が深くなるのです。
 でもそういう滅びの哀しみを深く味わったら、精神的に落ち込んでしまわないでしょうか。そこですね、このテーマは。そのはかない気持が文学や芸術に昇華されて表現されることによって、共感が興り、哀しみ が共有されます。するとそれが癒しになるのです。逆に哀しみを突き抜けて共感できる喜びが生じるのです。これはある意味つくり風流だけれど、そこにこそ共感を作り出す創造の喜びがあるということです。
 滅びゆくこと、死にいくことは哀しいことです。でもそれに立ち向かっていかなくては本当の感動を共有できません。この滅び行く実存にこそ、魂を震わせる美が、エターナルな意味があるというのが、仏教的無常観のメッセージなのです。