2012年6月4日月曜日

感じる脳 理性は道を示し、感情は決断をもたらす

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2006.07.20コピペ。

P24 現時点での私見を要約すれば、感情が心(mind)と身体(body)とに生じるとき、それは人間の喜びの、あるいは人間の苦悩の表出であるとい うこと。感情(feelings)は情動(emotions)に付け加えられた単なる装飾ではない。もつのも自由、捨てるのも自由、といったものでもので はない。

感情は有機体全体の命の状態の<顕れ>と見ることができるし、また実際しばしばそうである。命は綱渡り的活動であって、ほとんどの感情はバランスをとるための努力--絶妙な調節と修正の観念--の表出である。

人はあまりにもミスが多いから、それなしには全活動が崩壊する。もしわれわれは人間という存在の中に、われわれの卑小さと偉大さを同時にあらわすものがあるとすれば、感情こそそれである。
人前であがったり、プレッシャーを感じたりする感情の意味はなんなのか?
今の自分の能力では、戦うと負けるすなわち危ないから逃げろという心のメッセージだと思った。

だから、対策は自分の能力を高めるか、戦いを止めるか、いずれかである。で、私は戦いを止めたわけだが、今度は、憂鬱な感情が芽生えている。

これは、なんなんだぁーーー!!

戦えという心のメッセージなのか?

戦っても憂鬱、戦わなくても憂鬱、どういうわけだぁーーーー\(^o^)/


とま、そんなアホなことを思い浮かべながら、本を読んでいる。この本かなり手ごたえありそうな予感!♪

■アントニオ・ダマシオについて

1944 リスボン生まれ。リスボン大学で医学を学び、医師の資格と学位を取得し、その後アメリカに渡ってボストンの「失語症研究センター」で著名な神経学者ノーマン・ゲシュヴントの指導を受けて認知神経科学の研究に取り組んだ。

その後、母国の大学病院に戻ったがふたたび渡米してアイオア大学で臨床と研究に就き、近年はアイオア大学神経学部のいわば看板教授として大活躍していた。

現在、USC(南カリフォルニア大学)がダマシオ夫妻のために、作った--脳と創造性の研究所--で研究に勤しむ。

研究所の目的の一つは、

「社会的な情動」が、経済、ビジネス、政治制度、にどのように寄与するかを研究することだという。

ダマシオは、ホメオスタシス調節のうち進化的にもっとも高い(新しい)レベルのものが感情であり、そのすぐ下のレベルにあるのが情動であると考えている。

著書

1994 「デカルトの誤り」(Deacartes、Error)邦題「生存する脳」
1999 「事象の感覚」(The Feeling of What Happens)邦題「無意識の脳 自己意識の脳」
2003 「スピノザを求めて」(Looking for Spinoza-Joy,Sorrow,and the Feeling Brain)邦題「感じる脳」 

P25 情動とその関連反応は身体と連携しているのに対し、感情は心と連携している。

思考がどのように情動を誘発し、身体的情動がどのようにしていわゆる「感情」という種類の思考になるのかを研究すれば、それにより、心と身体という、シームレスに編まれた一個人の人間有機体の明らかに異質な二つの側面についての特別な見解がもたらされるはずだ。

思考ー>情動ー>感情
↑ーーー心ーーー↓

情動 emotion 泣く、心臓がドキドキetc
感情 feeling 喜怒哀楽etc(本書では、感触、感覚ではない)
心  mind 身体 body
意識 consciousness
思考 thinking

P30 たとえばスピノザが、「愛とは、外部の原因の観念を伴った、喜びという一つの快の状態にすぎない」というとき、彼は感情のプロセスと、情動を引き起こしうる対象についてある観念をいだくプロセスとを、明確に区別していた。(中略)

生物はさまざまな対象や事象に対して情動的に反応する能力を備えている。そしてその反応の後になにがしかの感情パターンが生じ、そのときある種の快や苦がが必然的な感情要素になっている。

スピノザはまた、好ましからざるアフェクトネス(訳者註:affectは感情と訳されるが、本書の重要なキーワードfeelingと区別す る)--つまり、不条理な激情---を克服する唯一の望みは、理性によって誘発されるより強力でポジティブなアフェクトゥスでそれを打ち負かすことであ り、アフェクトゥスの力とはそういうものである、という考えを提示した。

「アフェクトゥスは、それより強い反対のアフェクトゥスによってのみ、制限したり無効にしたりすることができる」(スピノザ) 

「感情より勘定」という、感情を理性によって制御しようとする標語があるが、それは正確ではなかった。理性によってプラスの感情を誘発し、それでもってマイナスの感情を制御するとするのが正しい解釈。

なんだ、一枚感情をかませただけじゃないか、と言うかも知れないが、言葉のあやで思わず「なるほど」と思ってしまう。つまり、そう考えることで、一つの心地良い感情が生まれたからだと思う。

問題は、理性によって感情そして情動をどうやって生み出させるかだ。まあ、スピノザがそういっているのだが、、、そして、そこにこそ人間の価値があると言っているようだ。

P32 「人間の心は人間の身体の観念である」、スピノザは心と身体という平行的発現のもたらす自然のメカニズムの原理を直観で理解していたのかも知れな かった。後で論じるように、心的プロセスは身体に対する脳のマッピング--情動と感情を引き起こす事象に対する身体反応を描写する一連のニューラル・パ ターン---にもとづいていると私は確信している。(中略)

明らかにスピノザは、二世紀後、ウイリアム・ジェームズ、クロード・ベルナール、ジムグント・フロイトが求めることになる生命調節の構造を探り出 していた。さらに、スピノザは自然の中に意図的な構想を見ることを拒絶し、身体と心は、広くさまざまな種において多様なパターンで組み合わせることが可能 な構成要素から成っていると考えた。この点はチャールズ・ダーウィンの進化的思考と一致していた。

人間の本性についてこうした新しい概念を持ったスピノザは、善と悪、自由と経済という概念をアフェクトゥスや生命調節と関連づけた。そして社会 的、個人的行為を律する規範は、人間についてより深い知識--われわれの<内なる>「神」または「自然」につながる知識--によって形成されるべきである と言った。 

 「人を殺さない」「人をいじめない」「人を差別しない」「人に同情・共感する」「人に援助の手を差しのべる」など、現在は個人間でばらつきのある感情、そ してそれにもとづく行動は、進化が進めば、自動化されるということなのだろうか?(たとえば、人を殺そうと思うと呼吸困難になってしまうとか)

人類は、複雑な環境に対処するために、ホメオスタシス(自動的な生命調節装置)のもっとレベルの高い非自動的な装置(感情)を獲得した、そう進化したということなんだが、個人にとっても、人類にとっても、ホメオスタシスとして機能するのだろうか?

著者も、スピノザも、そういっているのだが、、、そう願いたい。

複雑さのために、ホメオスタシスでもって自動的な解決ができなくなって、そこで滅びずに、高級なホメオスタシスすなわち非自動的な感情を獲得した というなら、やがて、これらは本来のホメオスタシスに回収されて、それが完成された暁には、感情も消えてなくなって、めでたしめでたし、ってことになるの か?

いまの人類は進化の上では発展途上で、仕方なく感情や意識をもっているが、やがて、なんでも自動的な解決がなされるようになって、それと同時に、感情や意識もいらなくなるということか?

それならそれで、面倒くさくなくてよい気もするが、あまりに味気ない。でも、意識が無いのだから、それすら感じないわけだから、それはそれでいいのか!?

脳が複雑になったから、環境が複雑になったのか?環境が複雑だから、脳が複雑になったのか?たぶん前者だと思う。だって、簡単な生物たくさんいるし。

複雑な生き方をしないと生きていけないように、身体が進化してしまったんだと思う。C.エレガンスのような洗練された生き方だってできただろうし、ユリの花のように気高く美しく生きれたわけだし。(いまさら、そんなことを言っても始まらないけど)

感情を意識を持たなきゃならないほど、複雑に進化して、そのために複雑な機械や社会制度をつくって、環境を複雑にして、管理しきれないから、自動 化できるものはどんどん自動化して、余った時間でまた複雑なものをつくったり、自動化したはずの機械が誤動作しないように、維持・管理するのに時間を費や して、生きてゆく環境をどんどん複雑にしてる。

生きてゆく環境を簡単にすることが、新たな複雑さを生み、さらに、それを簡単にすることでまた複雑になって、永遠にそれを繰り返す。

とにかく、意識を持ち続けたいのだな、と。

明日のことが分ってる単調な自動的な人生がいいのか、明日のことが分らない起伏のある非自動的な人生がいいのか、、、

ま、そんな人類ですが、私からしたら、同じ人間とは思えない。

P218 すべての生物が、その複雑さに応じて、そして、環境における生態的役割の複雑さに応じて、命の基本的な問題の自動的な解決策を等しく手に入れられるようになっているのだ。

しかしわれわれ人間の命の調節は、そのような自動的な解決策以上のものであらねばならない。なぜなら、われわれの環境は物質的にも社会的にも非常に複雑だから、生存と幸福に必要な資源の奪い合いにより、いとも簡単に対立が生じるからだ。

食物を手に入れるとか伴侶を探すという単純なプロセスが、複雑な営みになる。

P219 自然はホメオスタシスという自動的な装置を完成させるのに数百万年という時間をかけてきたが、非自動的な装置には数千年の歴史しかない。

しかしその自動的な生命調節装置と非自動的な生命調節装置には、それ以外にも著しい違いがある。一つの大きな違いは、「目標」、そして「方法と手段」に関係することだ。自動的な装置の「目標」、そして「方法と手段」は、十分に確立されていて効果的である。

しかし非自動的な装置に目を向けると、たとえば他人を殺さない、といったように、概ね合意されている目標がいくつかある反面、多くの目標が依然として交渉に委ねられ、まだ確立されていない。病人と貧困者をどう助けたらいいかなどはその例だ。
P275 「観念の観念」という考え方は、多くの点で重要だ。たとえば、それにより関係性を表象したり、象徴を創造したりする道が開ける。同じように重要なのは、それにより自己という観念を創造する道が開けることだ。

もっとも基本的な種類の自己は二番目の観念である。なぜ二番目か?なぜなら、それは二つの一番目の観念にもとづいているからだ。

一つは、われわれが知覚している対象の観念、もう一つは、その対象の知覚により変化する身体の観念である。自己という二番目の観念は、それら二つの観念--知覚される対象と知覚によって変化する身体--の関係性の観念である。(中略)

P278 スピノザは、心のプロセスはかなりの程度身体のプロセスに映し出されてはいるものの、身体は心が身体の内容を形成する以上に心の内容を形成する、とほのめかしました。

心と身体は相互作用するということなのだが、身体が心に及ぼす影響は、逆の場合よりはるかに大きいということ。

で、思い出すのは「唯識」。唯識の方(スピノザもそう、デカルトだってそう)は、内省的に、それを導き出しているが、ダマシオは、それを脳科学の言葉で裏づけている。

・唯識の世界:もう一人の私について
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki01.html
花を見ている時、花を認識している「私」、そしてその花を美しいと考えている「私」、更に花を美しいと考えている私を見詰めているもう一人の「私」がいる」
花を認識している「私」は、知覚している対象の観念。
その花を美しいと考えている「私」は、知覚により変化する身体の観念。
もう一人の「私」は、自己という二番目の観念で、二つの観念の関係性の観念。

という風に、見事に対応しているのが面白い。よく読んでみたら、唯識の「私」に対する見方ではなくて、割りと一般的な「私」に対する見方ですね。三人の私というのは。ただ、ダマシオは「観念」、唯識は「識」という言葉を用いてます。


関係ないけど、デカルトが心と身体(思惟と延長)を分けたのは、魂は不滅とする教会からの破門を恐れたからで本当にそう思っていたかどうかは分ら ないみたいですね。一方のスピノザは、身体とともに魂も無くなると言った(すなわち心と身体を分けなかった)もんだから(ユダヤ教の教えを受け入れなかっ たから)、財政的に援助していたにもかかわらず彼の属していたコミュニティのシナゴーグから追放されてしまうんですね。

(まあ、彼は、地位とか名誉とかお金とかより自分の自由な思考に一番の価値を置いていた人のようです。ごく稀にそういう人がいるんですね。爪の垢でも煎じてのみたいくらい)

洋の東西を問わず、宗教はみんな心(魂)と身体は分けている、なぜだろう?というか、魂しか認めてない?身体は仮のものとみなしている?無いものを有るとしておけば、確かめようが無いので、絶対バレない、ということなのかしら。(追記2012.06.04/06:37 苫米地さんによれば、お釈迦さんは、魂とかあの世とか、否定どっちでもいいとした人だと聞く。参照

第七章「自己保存としての感情」(参照

P351 スピノザの解決方法はまた、ネガティブな情動--恐れ、怒り、嫉妬、悲しみ、のような激情(パッション)--を誘発しうる刺激と、情動を実行するメカニズムそのものとの関係を断ち切るように要求している。

そしてそれを、ポジティブで有用な情動を誘発しうる刺激で置き換えるべきである、としている。この目標を実現するためにスピノザは、ネガティブな 情動に対する耐性をつくりポジティブな情動を生み出すコツを徐々に獲得する方法として、ネガティブな情動的刺激を心の中で想像して練習することを推奨して いる。

これは要するに、いわば「抗情(アンチ・パッション)」抗体をつくりだすワクチンを開発している心の免疫学者としてのスピノザ、ということになる。(中略)

P352 スピノザの解決法は情動のプロセスに対する心の強さに依存し、またその心の強さは、ネガティブな情動の原因の発見と情動のメカニズムの知識に依存している。

人が自覚しなければならないことは、情動を誘発しうる刺激と情動誘発メカニズムとの基本的な分離であり、それを自覚すれば、人はネガティブな情動 刺激を、もっともポジティブな感情状態を生み出せる<熟慮した><情動を誘発しうる刺激>で置き換えることができるとした(ある 程度、フロイトの精神分析にもこうした目標があった)。

ちなみに、今日、情動と感情の仕組みに対する新しい理解で、スピノザの目標はそのぶん実現可能なものになっている。

ユーミンが「心が傷つくとそれを修復しようとして何かが出る。それが創作なんじゃないのか」と言っていたのを思い浮かべる。

悲しみは他人への思いやりや支援の、怒りは不正をただすための、嫉妬は自助努力の、原動力だったりする。

ネガティブな情動は、両刃の刃で、使い方を誤ると、とんでもないことになってしまうが、上手く利用すれば、自分にとっても社会にとってもプラスの成果物を生む。

それが、ポジティブで有用な情動を誘発しうる刺激で置き換えるべきである、ということなのだろう。

ネガティブな情動の暴走は、免疫システムの暴走、すなわちアレルギー反応みたいなものか!?

■関連
・脳科学者・茂木健一郎とユーミンが語る作品の創作――アップルストア銀座での対談をレポート  2006年05月09日 17時04分更新
http://ascii.jp/elem/000/000/353/353206/
・松任谷由実と脳科学者の茂木健一郎氏、アップルストア銀座で公開対談 2006年5月9日(火) 00時31分
http://www.rbbtoday.com/article/2006/05/09/30685.html

P349 人はこの神を恐れる必要はない。なぜなら神が人を罰するようなことはないからだ。また神からの褒美を期待して勤勉である必要はない。なぜなら何も降ってこないからだ。唯一恐れるものがあるとすれば、それは自分自身の行動だ。

もし他人に優しくなければ、それはただちに自分自身を罰することであり、内なる平穏と喜びを実現する機会をただちに自ら拒むことことである。(中略)

だから人の行動は神を喜ばせることを目指すのではなく、神の本性と一致することを目指すべきである。そのようにすれば、なんらかの幸福がもたらされ、なんらかの救済が実現する。
 
原題「スピノザを求めて(Looking for Spinoza-Joy,Sorrow,and the Feeling Brain)」の通り、この本は、感情(feeling)と情動(emotion)のメカニズムについての解説が半分、後の半分は、スピノザの倫理を神経 生物学、脳科学の言葉を使って説明したり、スピノザの人生について語ったりしている。(あるいは自説のソマティック・マーカー仮説を、スピノザによって補 強した?)

スピノザは倫理の根拠を神にではなく、自然すなわちコナトゥス(自己保存の努力)に置いた。ダマシオは、自然すなわち生物のホメオスタシスに置く。そして、(スピノザがそうしたように)ホメオスタシスを社会的次元に拡張する。

感情は進化的にもっとも(新しい、非自動的な)高レベルのホメオスタシスであるという仮定がそれである。

過去の快/不快の経験が記憶されている場所(前頭前皮質)を損傷した患者が、理性的な思考はできても社会的に適切な判断ができないという事実から、意志決定をしているのは、合理的な思考ではなくて感情、と主張する。

湯川秀樹の言葉を思い出す。

科学でこられると、好きでもなくても正しいものは正しいと認めなならん。ところが言葉とか他の手段を使いますと、納得するについて好き嫌いが大い に関係する。(中略)専門の物理学でも、ある法則なり理論体系なりをよろしいと納得するときは、そこに何か美しいものを感じているわけです。そこで、科学 では好きでも嫌いでもないというけれども、実は心の奥の方では好き嫌いにつながってつながっている。(人間にとって科学とはなにか)

藤原正彦も養老孟司も同じようなことを言っていたと記憶している。私はいつも感情的に決断しているので、この説は、心強い。

ダマシオ夫妻のために、USCが創った-脳と創造性の研究所(Institute of the Study of Brain and Creativity)-の目的の一つは「社会的な情動(共感、当惑、恥、罪悪感、プライド、嫉妬、羨望、感謝、賞賛、憤り、軽蔑など)」が、経済、ビジ ネス、政治制度にどのように寄与するかを研究することだという。

合理的思考が共通ルールになっている現代社会ではあるが、合理的思考だけでは、感情が許さないというか、何か釈然としないものがある。

それはきっと、今の合理的思考が意志を持たない機械にしか適応できない決定論的合理性だからなのだと思う。意志を持ったすなわち感情を持った人間に適応できる非決定論的合理思考が望まれる。

あと、

本書は、思考、情動、感情の関係は下記のようなループ(実際はかなり複雑)をなすとしているが、

思考ー>情動ー>感情
↑<ーーーーーー↓

情動ー>感情のプロセスのメカニズムは非常に詳しい説明がなされているが、思考すなわち言葉への言及はまったくなく、思考は感情に影響を及ぼすと しただけで、思考ー>情動のプロセスのメカニズムの説明はなく、言葉(思考)は感情に相当影響していると思っている私にとっては、不満が残った。(それが 目的の本じゃなかっただけで、本が悪いっていってるわけではありません。本は素晴らしいです)

それから、脳内の細かい話は、それはそれで良いけれど、ファンタジーが欲しいと思った。そういう意味では、「心の先史時代」や「歌うネアンデルタール」辺りが面白そう。
http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060716

・人類の祖先についての最近のお話 その2
http://plaza.harmonix.ne.jp/~onizuka/Ancestors2.html#language
 
 


2012年6月2日土曜日

ランダムと一様あるいはミクロとマクロ

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2010.07.09コピペ。『感性の起源』(都甲潔著)より (注:太字はghotiによる、ただし、見出しは除く)

エントロピー増大の法則

P61 第2章で述べた通り、エントロピーとはランダムさを表す目安のことである。ランダムなほどエントロピーは高いといえる。これを理解するには、「覆水盆に返らず」という中国の諺が重宝する。この諺は、中国古代周王朝を守り立てた功臣にまつわる故事に由来する。

読書や川での釣りばかりしてり男の妻が愛想をつかしていったん去った後、夫が出世したことを知り、復縁を迫った。しかし、夫は静かに庭先に盆の水 をこぼし、「この水をすくって、もとの盆に戻してみよ」と、とうてい不可能なことを言った。妻に「済んだことは元に戻せない」と諭したのである。

この賢い夫は、周の文王の太公(祖父の意)が待ち望んだ人物ということで、太公望と呼ばれた。

この太公望の言葉は、熱力学におけるエントロピー増大の法則に他ならない。自然は、放っておくと、エントロピーの高い状態、つまりランダムな状態、巨視的に見て一様である状態へと移っていき、元には戻れない。

小さい容器に入っているより、地面に浸み込んで広がったほうがエントロピーは高いのである。太公望が、エントロピー増大の法則という物理学の大法則を知っていたはずはないが、経験的には私たちも合点いくことである。

ランダムと一様との関係をもう少し詳しく説明しよう。ランダムとは微視的に見て、という意味であり、一様とは巨視的に見て、という意味である。つまり、私たちが目にする現象は一般に巨視的な現象であるが、それは非常に多くの要素(原子、分子、化合物)からなっている。その要素は熱により常に、わずかではあるが、ゆらいでいる。

そのゆらぎ方がランダムなのである。このランダムなゆらぎは、目では見えない微視的な事象であるが、非常に短い時間で動きを何度も繰り返し、か つ、たくさんの要素があるので、多くの要素全体では空間を埋め尽くす方向へ進み、その全体としての様子を目で見ることができる。これが拡散であり、系は一 様な状態へと向かうのである。

その結果、エントロピー増大の法則とは、自然界が巨視的に見て一様に進むことを主張する法則ということになる。先のゾウリムシはランダムに行動することで、生活空間をできるだけあまねく、広く一様に探ることでエサにありつこうとしていたのだ。

赤インクをコップの水に一滴たらしてみよう。たらした点からインクがゆっくりと水中に広がる。拡散である。最初は赤色の濃淡の勾配がコップに形成 される。そして十分な時間がたつと、コップいっぱい一様に薄い赤になる。赤インクがコップの水全体に行き渡った結果の平衡状態である。

拡散の原因、それはエントロピー増大のためである。赤インクが、そのたらした一点にとどまり、色の形を作ることは許されないのだ。自然は一様化を迫る。

さらにもう一つの例を挙げよう。ゴムを引っ張るとゴムは縮もうとする。なぜだろうか。これもエントロピー増大の法則で理解できる。ゴムは一般に分 子がたくさん結合した高分子である。ゴムが縮んだ状態と、伸びきった状態を考えて見よう。縮んだ状態はいくらでもあり得る。どんな形でもあり得る。しか し、伸びきった状態はただ一つしかない。

P64 これは、何を意味するのか。縮んだ状態はくちゃくちゃとランダムで、伸びきった状態は秩序を保っている。言葉を換えると、縮んだ状態の方が高いエントロピーをもつ。それゆえ、ゴムは縮もうとするのだ。

自然は一様化の方向へ進むのか

自然はエントロピー増大の法則に従う。そうすると、形ある状態がが自分で勝手にできるのはおかしいということになる。エントロピー増大、つまり、 ランダムさが増すだけである。一様な状態へと向かうのみである。エントロピー増大、つまり、自己組織化は、エントロピー増大の法則に矛盾しているのであろ うか。

まず、エントロピー増大の法則は、閉じた系にのみ適応されることに注意したい。閉じた系とは、外部とエネルギーや物質のやり取りががないという意味である。つまり、外部から何も入ってくるものがないときだけ、使える法則なのである。

それゆえ、この法則は非平衡系では使えないことがわかる。生命はエントロピー増大の法則に従う必要はない。それでは外部から閉ざされた平衡系だと どうなるだろうか。先に紹介した脂質ニ分子膜やシャボン玉の膜の形成、雪の結晶形成がそれに該当する。実は、エントロピー増大の法則をもう少し詳しくいう と、この法則は系を構成する要素が相互作用しない理想系の場合を述べている。つまり、互いに相互作用しない要素の集まりについての法則だ。

ところが、脂質ニ分子膜では、脂質の疎水鎖が水分子をはじき、ファン・デル・ワールス力という弱い引力で脂質(石鹸)分子同士が引き合う。一様に散らばろうとはせず、集まろうとするのである。これはエントロピー増加とは逆の方向である。

この事実がからわかるように、要素が互いに相互作用し合う系では、要素間の力(つまり内部エネルギー)とエントロピーのかね合いで、系の状態が決まる。熱力学の言葉では、内部エネルギーとエントロピーからなる自由エネルギーが、系の状態を決める。

構造化と一様化

生命は物質の特別な状態だ -その統一的理解に向けて-

理化学研究所 ゲノム科学総合研究センター特別顧問 和田 昭允 氏
(掲載日:2006年10月16日)

生命とは一体何だろう? と考えるとき、生物を“物質世界の一部”と見るか“科学論理の外の作品”と見るか、つまり機械論(Mechanizm)と生気論(Vitalism)の立場がある。

そうは言っても、われわれの意識の中では生命界は“特区”のように際立っているのが普通だろう。これが自然科学がこれまで物質・生命の二大領域になんとな く分かれてきた由縁だ。しかし今日、両者の統合的理解が進んでおり、基礎から応用に亘る広い科学技術の発展の晴れの舞台となってきている。もし我が国がこ れに後れをとるならば、先進国としての将来はない。

科学史は、人類が営々と磨き上げてきた「計測」と「数理」が、森羅万象の暗黙知を形式知に変えて来た自然理解の歴史だ。1944年、量子力学の創始者の一 人であるエルウィン・シュレーディンガーは、「生命とは何か?」と題する小冊子の中で、物質としての生命の特徴をつぎのように見事に描写する。

「結晶のようなものは、構成分子が同じ構造を三方向に何度も何度も繰り返してゆく単純な“周期性の秩序体”だ。生物の場合は違う。複難な有機分子が単調な 繰り返しをしないで、だんだん大きく広がった凝集体をつくり上げてゆく。すなわち、分子それぞれが個性のある役割を演じ、全く同等の働きをするということ はない。このようなものを“無周期性の秩序”と名付けよう。ひとつの遺伝子、あるいはおそらくひとつの染色体全体、は“無周期性の秩序体”であると考えら れる」。

“生命は物質の特別な状態だ”と明確に言い切り、それまで単純な物質が相手だった物理学の射程距離内に生命を置いたわけである。

かくして20世紀の後半、生命探究の最前線はついに物質・生命両世界の国境に達した。ワトソンとクリックが、1953年にX線回折という物質構造解析の手 法によって“DNAという物質が遺伝という生命現象に持つ意味”を発見したことで、生物学はゲノムを基盤とする美しい形式知体系に変貌した。

これを受けて生命科学は定量的精密科学に生まれかわる。80年代から、生命、さらには人間、という超複雑な相手にも十分立ち向かえる能力を持った物理・化 学計測システムが次々に開発された。大規模で総合的な研究が始まり、得られた膨大な形式知群は情報科学が解析・整理・蓄積し、人類の共有資産となる。

今日科学者は人間・生物一般・地球環境の将来に対する「予想・予報」、また、医療薬や育種などの「デザイン可能性」で、社会の信頼を獲得し、種々の要請に応えられるようになった。

21世紀科学における最大の課題は“生命という特別な物質状態”の全貌を明らかにすることに他ならない。これは科学・技術の全分野が力を合わせなければな らない大事業で、そのイニシアティブを取った国が知の世界を先導するだろう。日本も遅れてはならない。

最後に、“我こそは”と思っている方々に、中谷宇吉郎の先見性に溢れた至言を送る。

『人間には二つの型があって、生命の機械論が実証された時代がもし来たと仮定して、それで生命の神秘が消えたと思う人と、物質の神秘が増したと考える人と がある。 科学の仕上仕事は前者の人によっても出来るであろうが、本当に新しい科学の分野を拓く人は後者の型ではなかろうか』。 (“簪を挿した蛇”『中 谷宇吉郎随筆集』 岩波文庫(1988))
(わだ あきよし)

英語版 | 中国語版


参考文献
和田 昭允   『物理学は越境する―ゲノムへの道』 岩波書店(2005)
和田 昭允   『生命科学の境界を越えて』 月刊「バイオニクス」1~12月号 オーム社(2005)
和田 昭允   『発想のメリーゴーラウンド』 月刊「バイオニクス」1~12月号 オーム社(2006)
岸 宣仁   『ゲノム敗北』 ダイヤモンド社(2004)


和田 昭允 氏のプロフィール:
1952年東京大学理学部卒業 1971年同教授 1989年同理学部長 1998年理化学研究所ゲノム科学総合研究セン ター所長 2003年同センター特別顧問 現在、同特別顧問のほか、お茶の水女子大学理事、日本学術会議連携会員、横浜市青少年育成協会副理事長、同協会 「横浜こども科学館」館長、東京理科大学特別顧問などを務める。 生物・生命の研究に物理学的手法を導入し、生物物理学という新しい学問分野を切り開き、 1981年には科学技術庁(当時)の振興調整費による「DNAの抽出・解析・合成」プロジェクトの委員長として、その後、激しい国際競争となった「ヒトゲ ノム解析」を世界に先駆けてスタートさせた。