2012年4月28日土曜日

はるか昔の夢の時に

mixi拙日記2008年01月21日のコピペです。

『機械の神話』(ルイス・マンフォード)を読む。先史時代の考察が面白い。道具といえば握斧しか証拠を残さなかった時代、十数万年もの間、人間は何をやっていたのだろうか。言葉もなかった時代、外の自然の脅威より内なる自然の脅威に晒されていたのだ。肥大した脳の過剰なイメージの横溢におびえ苦しんでいたに違いない。

P101 人間のすべての活動が物質的な欲求によって説明されると想像することは、まさに今問題にしなければならないことである。疑いもなく、初期の人類は飢えないようにせっせと働かなければならなかった。

しかし、少なくとも5万年前には、人間の精神がもっぱら仕事のみにかかわっていたわけではないことを示す十分な証拠がある。おそらく人間は、精神をよぎる奇妙なものにかなりかかわっていたのではないか。人間は--今まだわれわれにわりかけてきたことだが--きわめて特殊な内的活動である夢に触れることなしに、その外的な活動を十分に説明することのできない生物である。

P105 人間の内的世界は、外的世界よりしばしばはるかに恐ろしく、はるかに理解し難いものであったに違いない。事実、今なおそうである。そして、人間の最初の仕事は、環境を制御する道具を作ることではなく、自己を制御する、とりわけ自己の無意識を制御する、より強力で、より強制的な手段を作り出すことであった。

これらの手段--儀式、象徴、ことば、影像、標準的な行動様式(社会的習慣)--を発明し、完成することが、道具をを作ることより、生存に必要で、その後の発達により本質的な、初期の人類の主要な仕事であった。

人間の無意識的な自己がしばしば人間の生命を危険にさらし、きわめて冷静な計画をも無にしてしまうということの理解は、フロイドとユングの大胆で、ある意味では科学的な研究によって、初めてわれわれに確認されたものであるが、けっして現代の発見ではない。

プラトンは『国家』において、「人間は、理性的、人間的、自制的な力を失った時、恥や分別がなければ、どのような罪も愚行をも--近親相姦や母親殺しや禁じられた食物も食うことも含めて--犯さないとは考えられない。善良な人間にさえ野獣的な性質があって、眠っている間に現れる」ことを指摘している。

P117 ユングが注意したように、人々はある観念を理解するよりずっと前にそれを実行している。

初めに言葉があったのであろうか。いや、ゲーテが見たように、初めに行為があったのだ。意味ある行為が意味ある言葉より先にあり、それが言葉を可能にした。しかし、新しい意味を持ちうる行為は、一緒になされ、集団の他の成員と共有されて、たえず繰り返され、繰り返しによって完成される行為、すなわち儀式の遂行であった。

儀式は、その多くの表現すべてにおいて、固有のものと思われる一群の特徴を備えているように見える。というのは、それらの特徴が、まだ教えられていない行動にも、原始的な種族の集団にも見られるからだである。すなわち、それらは、繰り返しに対する要求であり、成員が互いに答え、互いにまねし合う集団をつくる傾向であり、戯れに他人の役を演じ、人の振りをすることの喜びである。

共感、感情移入、模倣、同一化--これらは、マーガレット・ミードのような人類学者が、すべての文化の伝達に対して適切に使っている用語である。これらは、哺乳類にあり、霊長類にきわだってあり、人類ではさらに十分に行われている。

P120 人間は、自分の外に秩序を発見し、投影する前に、不断の繰り返しによって、秩序をまず自分の中に確立しなければならなかった。ここにおいて、儀式の正確さが果たした役割は、どれだけ評価しても評価し過ぎることはない。

儀式の本来の目的は、何もないところに秩序と意味を創りだし、その秩序と意味ができあがった時に確認し、失われた時に回復することであった。

古い型の合理主義者なら「無意味な儀式」と見るものは、この解釈によれば、むしろ秩序や意味のあらゆる様式の古い基盤であったのだ。

現在、儀式の大部分は機械的な秩序に化してしまったため、機械に対する現代の若い世代の反抗は、無秩序や行き当たりばったりを促すのが常となっている。しかし、それもまた、それの攻撃する日常課程のように強制的で「無意味な」儀式に化してしまった。

P121 儀式があらゆる形の他の文化の祖形であるという考えが本当らしく思われるのは、すぐれた言語学者エドワード・サピアがオーストラリアの原住民に関して言ったように、ある文化がどれだけ衣服や家や道具を欠いていても豊に発達した儀式を示すからである。

初期の人類が栄えたのは、道具の使用だけによるよりはむしろ儀式や言葉の社会活動によるものであり、また、道具を作り、道具を使う技術は儀式的表現や言葉をつくることに比べて長い間遅れた技術であった、という説は単なる当て推量ではなく、可能性の高い推論なのである。

人間の初期におけるもっとも重要な道具は、自分の身体から引き出したもの、形式化された音と形と動きであった。そして、これらの手段を共有しようとする努力によって、社会的連帯が促された。

P122 幼児遊びについての故リリー・ペラーの鋭い観察が、初期の人類の生活における儀式の役目について特別の洞察を与えてくれる。単調で執拗な繰り返しは、大人にはきわめて退屈であろうとも、幼児にはまったく楽しいものであることを、彼女は指摘している。

初期の人類は、この基本的な幼い喜びを知っていて、それをできる限り利用したのではないか。自然な衝動も単調な繰り返しも、幼い者にとって等しく生得的で、等しく楽しいものである。そして、固定され、繰り返される形に対する生得的な能力は、人間の全発達の基盤をつくりだしているように思われるほど、深いところに根ざし、主観的な報酬のあるものなのである。

つまり、儀式的な正確さの要求、繰り返される儀式に対する主観的な満足、期待して求めた答えが得られる安心、これらすべては、人間の鋭い敏感さや精神的な解放性や不安定さを相殺するものであり、それによって、人間精神のより高い発達を可能とした。

しかし、儀式のための条件は種族の幼年期に属するもので、したがって、潜在的な意味や目的をもたない繰り返しだけが満足の源であるような機械的な儀式帰ることは、幼時の段階に後退することである。

それでは、人間の生活が他の意味表現の様式を獲得する前における儀式の基本的な重要さを評価できいないことと、今日の機械的な大量儀式における人間発達への脅威を理解できないことの、どうちらがより大きな誤りであろうか。

というのは、後者においては、秩序はすっかり機械に譲り渡され、どのような様式も機械に役立たなければ内面化されても、受け入れられもしないからである。マーシャル・マクルーハンが大量伝達を讃えて言ったもっともらしい観念--手段が実は意味であるという観念--は、もっとも幼い、前人間的な段階における儀式への逆戻りを示すものである。

この性質は、今も昔も変わらないということか。『生命の塵』(クリスチャン・ド・デューブ)の締めくくりの言葉を思い出す。「自分の庭を耕さなければならない」

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