2012年12月25日火曜日

科学の新しい考えは、反対者を説き伏せることによってではなく、むしろ反対者がいずれ死に絶えるがゆえに勝利を収めるのです

ふと思い出したので、遠い記憶を求めてシークエンス。拙mixi日記2008.07.20コピペ。

 某ブログを読んでいて思い出したのでメモ。大抵はそうだけど、時としてそうでない場合もあるということ、だからこそ、それを目にしたとき、人(わたし)は感動する! 

『ミトコンドリアが進化を決めた』P125 
1970 年代の中ごろには、まだ分子レベルの現象をいろいろ解き明かす必要があり、それが物議をかもしていたものの、大半の研究者はミッチェルの見方に同調するようになっていた---ミッチェルはライバルたちがいつ「転向」したかを示す一覧表まで残していて、彼らを激怒させた。彼が1978年にひとりでノーベル化学賞を受賞したことも、冷遇される一因となったが、その飛躍的な考えは単独受賞に値していたと私は思う。かつて10年ほど精神的につらい期間を過ごし、生体エネルギー論の敵対的な研究者に加え、病気とまで戦った彼も、最高に手厳しかった批判者の転向を、生きて目にすることができたのである。ノーベル賞の受賞講演で彼らの思想的な寛大さに感謝の意を述べた際、ミッチェルは偉大な物理学者マックス・プランクのこんな言葉を引き合いに出している---「科学の新しい考えは、反対者を説き伏せることによってではなく、むしろ反対者がいずれ死に絶えるがゆえに勝利を収めるのです」。この悲観的な言葉を反証してみせたのは、「非常にうれしい成果」だった、とミッチェルは言っている。 

『ミトコンドリアのちから』P179 
ミッチェルは晩年、自らが提唱した生体エネルギー学からさえも抜け出したいと考えていたらしい。そして、カール・ポパーの科学哲学に共鳴しつつ、「科学の人間性」について思索を巡らせた。科学は客観的真理を扱うと思われがちだが、本当は人の心が実在世界を捉えることによってなされるのだから、科学の人間性を探求しなければならない。実験の限界も知らず、謙虚な態度を失えば、科学者は自分たちの学派に閉じこもってしまうだろう---ミッチェルはそう唱えた。自らの健康を犠牲にするほどの論争を潜り抜けてきた彼だからこそ、重みを持って伝えられる思想であった。 

(メモ)渡久地明の時事解説:改めて確信を持って常温核融合をおすすめする 
http://toguchiakira.ti-da.net/e1560943.html 
マックス・プランクが言ったように「科学の進展は葬式ごとに進む。」彼は次のように説明した。「新しい科学の真実の勝利は反対の人を目から鱗が落ちるように説得させるわけではなくて、むしろ反対派はだんだん死んでいき、その新しい真実に慣れた新しい世代が成長してくる。」 
 権力のある支配者層の科学者がたくさんいて、あまり理性のない熱情で反対しているので、自分が間違っていると白状できないから、研究は彼らが死ぬまで待たなければならないだろう。残念ながら常温核融合の研究者は引退した科学者が多くて、反対派の人よりも年上で早く死に絶えている現状だ。(まえがき) 

http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20080527/1211859138 

(メモ)巻頭言 信と不信 <GA Site> 
http://www.gasite.org/library/ucon133/index.html 
ドイツの大物理学者マックス・プランクは言っている。 
「反対論者をしだいに屈伏させて転向させるという形で重要な科学的革新が行なわれることはめったにない。サウロがパウロに変わることはほとんどないのだ (注=迫害者サウロは後に転向して使徒パウロとなり、不滅の名を残した。サウロはへブル名)。それが変わるのは、反対論者がしだいに死に絶えると次の世代は革新的な学説を支持するからだ。結局未来は若者の手にあるのだ」  

(メモ)支配としての模範 
http://www.nagaitosiya.com/b/paradigm.html 
クーンはマックス=プランクの次のような言葉を引用している。 
新しい科学的真理が勝利をおさめるのは、それの反対者を納得させ、彼等の蒙を啓くことによってではなく、その[年寄りの頑固な]反対者が最終的に死に絶え、当の新しい科学的真理に慣れ親しんだ新しい世代が成長することによってである。 

(メモ)趣味の経済学 民主制度の限界 
http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/seido.html 
研究はその分野の老教授が死ぬことによって進歩するという、マックス・プランクの言葉 

(メモ)「相手のほうが正しい」と認められるかが基準
https://toyokeizai.net/articles/-/627560?page=4
本当に真実を知ろうとしている人と、ただ頭でそう思っているだけの人を分けるのは、「正当な批判を認める」「今回は『相手のほうが正しい』と言える」「自分の間違いを認められる」といった行動をとっているかどうかだ。

もし自分の意見を批判されたとしたら、こう考えてみよう。

「自分とは違う考えだが、理にかなっていると思えるもの(その意見を持つ人を知らなくても)はないだろうか?」

「自分は理性的で、賢く、知識がある」と感じているのと、それを実践していることは、別の話だ。

(メモ)科学と芸術、あるいは、普遍と個別
https://ghoti-ethansblog.blogspot.com/2019/01/blog-post_16.html#248
P248 まったく同じ実験データでも、いろいろに解釈できることがままあるのだ。---この事実こそ、科学の歴史が文学批評の歴史とおなじくらい多くの悪意に満ちた議論で埋めつくされている理由である。

かくしてわれわれは、実験によって科学的な理論を検証するという相対的に客観的な方法から、美学的価値という相対的に主観的な判断基準まで、一連の連続的な変化を再び手にすることになる。

2012年12月8日土曜日

アメリカ政治の6大潮流

ふとしたきっかけでこれを思い出した。拙mixi日記2008年02月02日をコピペ。


リベラルに関するツイート(検索/tw/tw/tw/tw/tw)
私の理解tw/tw

アメリカ政治の6大潮流』(副島隆彦著)より
このバーキアン(自然法派)とロッキアン(自然権派)の巨大な対立軸のことが、この百年間、日本の政治知識人層には全く分からないのである。http://soejima.to/souko/strategy/ 
共和党-A 民主党-B 
A1) 伝統保守派(保守本流)=エドマンド・バーク主義(バーキアン)=「自然法」(ナチュラル・ロー)派 
A2) 現実保守派=ジョン・ロック主義(ロッキアン)=「自然権」(ナチュラル・ライツ)派 
A3) リバータリアン派=ジェレミー・ベンサム主義(ベンサマイト)=「人定法」(ポジティブ・ロー) 
A4) ネオ・コン派=新保守主義、外交・軍事問題におけるグローバリスト 
B1) 現代リベラル派=「人権」(ヒューマン・ライツ)派、福祉推進派 
B2) 急進リベラル派=アニマル・ライツ派、環境保護派、反資本主義、反体制派 
私は、どんな思想にせよ好きなことができて食べていければそれでよいと思っている。ただ考え方が素晴らしければ素晴らしいほどその実現は難しい気はする。そういう意味でバークの思想には共感するのであるが、現実の政治にはあまり関与したくはないといった感じだ。 

著者の研究は分り易い。どんな考え方があるのか知りたい、ということで、しばらく『現代アメリカ政治思想大研究』をメモ。

自然権と自然法
P118 ジョン・ロックが創始した「自然権」=「憲法が保障する諸人権のカタログ」の思想に正面から対決した思想家が、エドマンド・バーク(1729-97)である。バークは自分の属したホイッグ党Whig Partyの立場に従い、アメリカ独立革命運動には理解を示したが、フランス大革命には大反対であった。フランス革命を実行に移したフランスの過激派政治家たちがロックの「自然権」を鵜呑みにして、それを自分たちの行動の原理として担ぎ上げ、「人間は生まれながらに自由かつ平等だ」と高らかに宣言したこと、それ自体を大変嫌った。 
なぜなら、この地上でこれまで人間が、そして社会が自由で平等であることなどなかったし、大昔も過去も現在も、それからおそらく未来においても、政治宣言として「そうあるべきだ」と主張する以外には、そんなことはないからである。かつ、そんなことは誰にも証明できないからである。実際の人間世界では、「人間は、なるべく個人の努力により、自由かつ平等であるべきだ」としか、本当は言えないのである。 
近代以降の人類が犯した戦乱や民族皆殺しや政治的大量殺人などの数々の悲劇と大間違いは、この自然権思想の立場に立って現実の世界を無視して楽天的に、「人間は自由で平等だ」などと簡単に宣言してしまったことにある、と考える根本保守の思想は、実質的にこのバークによって始まった。 
バークと同時代のスコットランドの大哲学者ヒューム(1711-76)もまた、その懐疑主義の立場から自然権を否定した。現実の人間世界は、つまらぬイデオロギーの色眼鏡を外して冷静に見れば、不自由でかつ不平等なものであり、ちょっとやそっとのことでこの現実は変わらない。また、変えられなるわけがない。 
ところが、この人間世界の現実を急激に現状を変えようとして、かえって、政治権力を握った者たちが理想主義に燃えて革命・大改革を断行しようとして、かえってあれこれの不都合を引き起こし、結局それは強制収容所や政治的大量殺人という、ろくでもないことにしかならなかったことは、歴史の教えるところである。 
人権派とは何か
P122 バークの(A1)自然法の思想は、現代につながる根本的保守の態度の思想として「近代民主主義憲法体制」そのものと対決するものとして生まれたのである。そしてそうであるが故に、この世の中を表面的なキレイゴトとしてではなく、もっと深く深く考えようとする、優れた保守的人格の多くの人々が今も世界中にたくさん存在して、彼らに「我はバーキアンBurkeanなり」と言わしめるのである。彼らは、利権や現実勢力に結びつく現実的保守主義者たちとは違って、「永遠の保守的態度の人々」と呼ばれるべきだ。 
しかし、ロックの(A2)自然権派の方だって、この世界政治思想上の大対決において、簡単に負けてはいない。それは20世紀に入ってさらに拡張・拡大されて、「憲法が定める基本的人権」となった。これはたとえば、われわれ日本人の現行の『日本国法典』(1946)や、国際連合の『世界人権宣言』(1948)などを作るに至った。そしてこのロックの自然権から始まった「憲法が定める基本的人権」を、まるで当然の「自明の実在の権利としての、国家に対する請求権だ」と考えるに至った。 
すなわち、「ひとりひとりの人間が国家に対して自分の生活を保障するように請求できる権利をもっている」「それは生まれながらの、奪うことのできない権利だ」と思い込んだ人々が、世界中に多数存在するようになった。現代世界の多数派は、この派の人々である。それは『世界人権宣言』というものの存在の一つをとって見ても分ることだ。  
彼らは自分たちのことを(B1)人権派=リベラル派、あるいは民主主義者と信じて、自分たちのことを正義の人々と信じ込むに至った。このような人々が大量に生まれて、現在に至っているのである。
日本国憲法では、第25条の「生存権、国の生存権保障義務」として、「全て国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」としているが、ここのこの人権派の思想がよく表れている。私はこの人権派を単に人権派と呼ばずに、より正しくは「constitutional human rights(憲法体制的人権)派」と呼ぶべきだと思う。
ここで注意すべき点は、この(B1)人権派と(A2)自然権派とは、厳密に分けて考えなければならないことである。ロック直系の(A2)自然権において、憲法典は「生命・身体及び財産の自由」だけを保障宣言しているのである。自然権派は、「人間の生命、身体、財産所有の国家からの自由・独立・不可侵」だけを定めているのであって、「憲法典は全ての人間の社会福祉までを保証している」とする(B1)人権派とは、本来、決定的に違うことを知らなければならない。 
(A2)自然権派は保守思想であり、(A1)自然法派と対立して近代西欧を支配した二大保守の潮流の一方の雄である。それに対して(B1)人権派は、(A2)から派生して、(A2)とは違うものに成長していった。人類の自己誤解の巨大な産物である。(B1)は、その後の社会主義思想と混合して出来上がった、完全なリベラル派である。 
日本では、(A1)は本格的には輸入されないまま今日に至り、(A2)と(B1)はごっちゃになって区別をしっかり付ける間もなく「天賦人権論」として明治の中期に入ってきて、そのままベタッとくっついたまま、(A2)は左翼的人間主義運動としての(B1)に飲み込まれて行方不明となって現在に至ったのである。 
1914年、日本に初めて反天皇制の民主主義=民本主義を『中央公論』誌に説いて華々しく登場したのが吉野作造だったが、それからたった10年後には、日本の政治思想の主流は、ソヴィエト共産主義(社会主義)に飲み込まれていった。したがって、明確に(A2)であった吉野の民本主義と(B1)の左翼・社会主義の区別をつける力がないままに、日本の政治思想は(B1)派に成り果てて、やがて戦後にも(B1)派の全盛を迎えたのだった。 
天賦人権論は明治の初めから福沢諭吉がアメリカ経由でジョンロックの思想を輸入して広めた。有名な『学問のすすめ』の中の、「天は人のうえに人を造らず、人の下に人を造らずと言えリ」である。自由民権運動の中からも、たとえば中江兆民によって、ルソーの『民約論』などが過激な思想として伝えられた。簡単に言えば、ルソーの思想はロックに比べて過激人民主義で、(A2)派からの(B1)派の分離を予兆していた。ルソーの一般意思論がそれだ。そしてルソーの思想は、のちにナチスやスターリン型の(B1)派につながる。 
それに対して、近代自由思想家としての(A1)の自然法を強調したバークの思想がイギリス古典自由思想として日本に到着したのは、やっと第二次世界大戦後のことである。それは、ヨーロッパの政治思想をこつこつ学んだ少数のすぐれた政治学者たちだけが共有している思想であって、政治学者たちの論文としてはたくさん書かれたのだが、一般読書人にはほとんど知られていないのが現状である。 
P126 日本では(A2)のロック系の自然権は(B1)の人権派の人権と混じり合ったまま、「憲法が定める基本的人権」の「諸人権カタログ論」として今日に至る。 
アリストテレスに起源をもちバーク改訂による(A1)自然法の方は、ちっとも理解されずに現在に至っている。 
日本では政治思想をめぐる問題は、左翼(モスクワ寄りマルクス主義的社会主義派、反モスクワ派もいたが)と、保守派(民族主義的な天皇尊重派、あるいは資本主義肯定派、あるいはアメリカ寄りの反共保守)の対立としてであった。最近は日本でも急激に増えている自称保守主義者の人々でも、ついほんのこの間まではちっともそうでなくて、学生時代には左翼活動家だったりする。  
アメリカの自然法派と自然権派と人権派

P132 自然法派を制度によって微分(極端化)したものが自然権派であり、これをさらに近代憲法典によって微分したものが人権派である。そしてこの人権派をさらに動物・生命の次元で3回微分すると、「高等動物擁護=環境保護」派になる。 
P127 東部の名門大学の法学部は、200年前のアメリカ建国当時の、アメリカ憲法を定めた時の、その権利宣言を法律解釈の基準として重視する。彼らは「アメリカ市民の生命と身体と財産の所有の自由と、生産活動の自由を保障するために、国家はあるのだ」と考える。自然権派そのものである。 
P128 彼らは、現実の憲法体制の存在を自明の前提とし、それを現実の秩序として確固たるものとして認めた上で、職業人として、このアメリカ憲法に基づく政治体制に奉仕するのが自分たち専門的法律家なのだと考える。だから、自然権は、徹底的にプロの職業的法律家の思想である。 
念のため繰り返すと、自然権は人権と呼ばれるものと重なるのだが、この自然権には「貧しい人々の生きる権利」や「社会福祉優先」や「政治的少数者の側の権利」などのいわゆる「社会権的人権」の類は含まれない。 
ハート自然権派は「生命・身体・財産の自由」だけを重視するのであって、「それ以上の各種の人権の保護」を強調する人権派=リベラル派とは異なる。ジョン・ロックの真骨頂は、「財産の所有権」という制度思想を作って「所有権が人間の自由を保障するのだ」とした点にある。 
アメリカの建国期に成立したこの自然権派は、ロックの思想を下書きにし『独立宣言』を実際に起草したジェファーソンに代表される。それに対してアメリカの自然法派は、法思想家としてのリンカーン(1809-65)第16代大統領をその代表とする。 
リンカーン大統領は、アメリカ合衆国憲法の個々の定めよりも、もっとその奥にある、永遠なるものを強調した人だ、とアメリカ国民一般に受けとめられている。「永遠の相の下における」という言葉が、自然法派の合言葉なのである。 
それに対して自然権派は、自分たちは法学者・法律家としての現実の「それぞれの法律の定めに従って規制をする」だけなのであって、この場合「その法律そのものが正義であるか、善であるか」などということを判断すべきでないし、かつ、その権限も自分たちにはないと考える。 
そのようなことは法律家がとやかく言うべきことではなくて、それは議会が決めることである。国民の代表たる議員たちが法律を作るのであって、その際憲法の条文や個々の法律の正義や善や公正さについては、彼ら議員たちが議論し論究すればいいのであって自分たち法律家の仕事ではない、とする。 
P129 自然権派は、自分たちはもっぱら職業人として法律実務家なのであり、「それぞれの法律を基準・尺度にして紛争を解決し」「法律を合理的に解釈して仕事をしているだけなのだ」と言う。 
それに対して、自然法(自然の掟)派の法学者たちは、現実の法律の欠陥を補うために、あるいは正義justiceや善goodnessや公平fairnessを実現するために、法律家が積極的に真の「法を発見」するのだとか、「法を創造する」のだとか、往年の名裁判官Oliver Wendell Holmes(1841-1935)判事のようなことを言う。 
これに対して、自然権派は、自分たちはそのような大それたことは言わない。現実的保守なのだ、という反論を行なう。すると自然法派は、「あなた方自然権派は、つきつめれば法律を国家の強制的命令だとするベンサム主義と同じではないか」「法律と人間との関係を真剣に考えない人々なのではないか」という疑問を投げかける。 
これら自然法派と自然権派の二大保守思想に対して、人権派=リベラル派は、総体的には自然法を認めつつも、その議論にあまり踏み込まないで、もっぱら人権に則って、貧しい人々や黒人や同性愛者や、政治的に弾圧されている人々を助けよう、という考え方で動く人々だ。 
それに対して自然法派の永遠の保守派の人々は、「その貧しい人々の人権を実現するためのお金は一体、誰が、どこから稼ぎだすのだ、できもしない相談や無理な注文をしてくれるな」「救えないものは放っておくしかない」「人間は生まれながらにして自由で平等だなどというのは、自分勝手な空想だ」と言いたげである。 
人定法派 リバータリアンってどんな人たちなの

私は、バーキアンでもロッキアンでも人権派でもベンサマイトでもなく、パラサイト。『現代アメリカ政治思想大研究』は分り易くて良いね。 


P135 positive law人定法(実定法)派である。大きな意味で自然法を認めるという点で、自然権派、人権派は自然法派に含まれると考えてよい。 
ポジティヴ・ローpositive lawというのは、法は人間が決めるのであって、神や自然のような、目に見えない幻想が決めるのではない。「法」とはこの地上の人間が定めるものであって「天」や「神」や「自然」が決めるのではないという。自然法に対する痛烈な批判から始まった考えである。 
P136 人定法派の創始者は、イギリスの18世紀の哲学者・法思想家のジェレミー・ベンサム(1748-1832)である。彼は学生時代、当時のイギリスの最高の法学者であったオックスフォード大学教授ウイリアム・ブラックストーン卿(1723-80)の法学の講義を聴いて勉強したのだが、のちにベンサムはブラックストーンの考えを嘲笑して、「どこにそのような、神とか自然の摂理とかとかいうのがあるのか」「どうやったら、人間の秩序を支えている、そのような永遠の法則なるものを見ることができるのか」と批判した。 
加えてベンサムは、ロックの自然権も批判した。生命・身体・財産の自由は人間が生まれながらにしてもつ固有の権利であるとする自然権natural rightsに対して、そんなものは「竹馬の上にくくり付けられたタワゴト」と言い放った。 
ベンサムは自分が打ち立てた重要な哲学原理である功利主義Utilitarianismに従う。功利主義とは、「人間は快楽・幸福を求め、苦痛を避け酔うとする行動する生き物である」という原理であり、この大原理の下に、人間社会は「最大多数の最大幸福」の原理に従って成り立っているとした。功利主義は現在も生きている人類史上の大思想の一つである。 
ベンサムの立場からは、したがって、法は人間が定めるのであり、何が正しくて、何が善であり、何が公平であるかは、全てこの地上の現実の人間たちがよくよく議論して決めることであって、予め神や自然の摂理が決めるのではない、となる。 
このベンサムの功利主義思想を、法哲学分野に置き換えたとき、まさしく「リーガルポジティヴィズムlegal positivism」となるのである。 
P138 こうしたベンサムの思想を体現する人々のことをベンサマイトBenthamiteと呼ぶが、彼らは温厚な永遠の保守思想を説くバーキアンBurkeanたちと争う。バーキアンの立場からは、「社会道徳とか穏健な秩序というのは、伝統の中で育まれ、より良き社会に確実に実在するものである」となる。 
この温和で健全な保守思想に対して、「何を言うか、倫理とか道徳というのは徹底的に個人的なものであり、社会を支配するものではない。それは貴族や僧侶たちが民衆に向かって偉そうに説教するときのお定まりの道具にすぎない」「何より重要なのは、経済である。社会は経済さえしっかりしていればいいいのである。余計なことにまでいちいち下らない説教を垂れて、個人を縛るな」とベンサマイトは反論する。
「何よりも秩序が大切なのだ」とか「国家が個人に優先する」とか「税金を払うのは当然の国民の義務だ」とか言うバーキアンに対して、「個人生活に余計な干渉をするんじゃない!」というのが、ベンサマイトの主張である。 
そして、現代のアメリカでこのベンサマイトの保守思想を継承し、アメリカの自衛武装開拓農民魂(パイオニア・スピリット)を強固に体現する人々こそが、まさしく、リバータリアンLibertarianと呼ばれる人々なのだ。 
このリバータリアニズムは、今や共和党の内外で一大政治勢力を築いている。それに対してバーキアンの方は、共和党内の主流派保守の立場であって、「世の中をなるべく上手い具合に纏めて、政治優先で、政治指導者たちの力によって秩序を保ってやって行った方がよい。結局その方が、経済も上手くいくのだ」とする考えである。
だからアメリカで保守本流Traditional Conservativeというのはこのバーキアンの政治的エリートたちのことであり、それは高学歴や出身家庭の裕福さに支えられて高級官僚や議員になったり、企業の役員に天下りできるような人々のことなのである。 
したがって、彼らの好きな言葉は、「温和な秩序」である。「急激な改革」ではなく「漸進的改良」である。加えて「社会倫理・道徳を大切にしよう」であり、「伝統重視」なのである。 
これに対して、ベンサマイト=ポジティヴ・ロー法人定主義の法学者たちは、社会道徳とか伝統重視ということを、絶対言わないのである。ベンサマイト=リバータリアン保守派は、共和党の連邦政府の官僚になることなど決してないような一般大衆の中の保守派の人々である。 
もし今のアメリカで、ごく普通の商店主や小企業経営者や農場主たちに自分の政治思想を語らせれば、たぶん、それはリバータリアニズムである。 
実はこのリーガル・ポジティヴィズム法人定主義の牙城は、歴史的にドイツの法学者・法律家たちなのである。彼らは天とか神とか自然が、「人間にこれこれこのように教えた」という言い方を好まない。ドイツの哲学者や法学者は昔から、徹頭徹尾ガチガチの理屈屋であるから、英米人と違ってどこまでも理屈で押し通そうとする。するとやはり、彼らは法人定主義にならざるを得ない。 

・副島隆彦を語るスレ 
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/comic/3438/1153553991/ 
この二日、中川 八洋や副島隆彦が宮台をとりあげこき下ろしているのを目にした。嫉妬心なのか? 

・中川八洋+渡部昇一コンビによる『教育問題憂国本』の面白さ。 - 荻上式BLOG 
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20070206/p1 

切ないねぇ


P146 人間はそもそも、「実際には自由でも平等でもない」生き物である。25年間住宅ローンを払い続けなければ自分の住居さえ手に入らない人と、生まれた時から資産のある人の生活上の差を、縮めることはできてもなくすことはできないだろう。あるいは、会社の従業員である人々と、企業の経営者である人々との対立を消し去ることはできない。そしてこの「貧富の差」や「社会階級」を一気に消滅させようとする理想主義の運動が、これまでに、この地上でどれほどの政治的惨劇と大量殺人を招いてきたことか。 
では、自然法のバーキアンの保守思想と、現実の政治体制を実務的に守り抜くべきだという、現実保守の自然権派(ロッキアン)との違いについて、再度考えてみよう。 
自然法と自然権では、生き方、人生の身の処し方が、やはり相当に異なる。現実保守の自然権派は現実政治の脂ぎった権力闘争を実際に肯定し、それに参加し、その渦の中で自分の立身出世を考える。それに対して、自然法派は、「現実の汚い政治」を大変嫌って、それらに近づこうとしない。自然法派はできることなら山の中にこもって隠者となって生きたい人々なのである。だから自然法派は、「永遠の相の下の」保守思想なのである。 
では、自然法派とポジティヴ・ロー人定法の違いはどうだろうか。人定法派(ベンサマイト=リバータリアン)は、中小企業の経営者や独立自営農民の思想であるから、やはり自然法よりももっと強固に、「人間にどうしようもない現状は、やはりそのまま放っておくしかない」「自分の生活を守るのが精一杯であり、自分の生活が最優先する」「国家や社会が自分にメシを喰わせてくれるわけではない、その逆だ」という態度をとる。 
P147 すなわち、彼らは自力救済を愛するのであり、自助努力の人々である。はじめから社会や他人をアテにする人間を嫌う。人間の救済というのはそう簡単にできることではなく、かつあり得ないことだ、という点ではバーキアンと一致する。バーキアンと異なるのは、そのことをためらわずにはっきり言うことである。「自分たちには余裕がないから、飢え苦しんでいる人々が世界中にたくさんいるとしても、救えないものは救えないのだ」ということを公言し、かつ、そのことで少しも悪びれないことが、このポジティヴ・ロー=リバータリアン保守派の強さである。 
だから日本には、元祖リバータリアン政治家のバリー・ゴールドウォーター上院議員などは、リベラル派からすれば冷酷非情の強欲人間のように伝わっている。リバータリアンたちの生活実感は、開拓農民として苦しい人生経験の中で培われた、旱魃のために作物が穫れず、飢えに苦しむこともあったアメリカ国民のことを、私たちはあまり知らない。リバータリアンの原型は、西部開拓時代に、インディアンに襲われて惨殺された仲間の開拓農民たちを可哀想と思っても、それを沈着冷静に見つめ、さらに自分の家の防備を固めることに気を配る開拓農民の姿である。 
「白人が殺されえた」といって、それを新聞記事にして大宣伝をして憤慨悲嘆してみせるような、大都市ニューヨークの偽善者たちとは違うのである。この人権派のヒューマニストたちが次に何を言い出すかは、容易に分る。「その犯罪者のインディアンどもを逮捕して徹底的に処罰するために、騎兵隊を派遣しろ」である。ここにはインディアンの立場はかけらもない。そして、インディアンのさらに外側に存在するアジア人、日本人への視点がどのようなものなのか、容易に分るのだ。
「世界のどこそこの紛争地帯で、難民となって飢えて苦しんでいる人々が何十万人、何百万人います。さあ、彼らを助けましょう」というようなことを、テレビの画面から視聴者に向かって説く人々の中にこそ、偽善を観なければいけない時代がきている。彼らテレビキャスターたち自身はは、情報産業における情報商品の伝達者にすぎない。「どこどこで人々が飢えている」ことを情報商品として、次々に売りさばいているだけの人々である。「苦しんでいる人々をなぜ助けないのですか」という理屈で迫ってくる人間たちの中に、正義の仮面をかぶった真の悪を見ないわけにはゆかない。 
P148 「まずあんたが行けよ」と冷めた目をした今の若者なら言うだろう。日本人にも、これらの偽善的なヒューマニズムの脅迫に屈しない「反福祉・反税金・反国家」のリバータリアン保守派的な人々は、歴史的に存在したのである。あれこれの人類博愛理論の本質を見抜いてその悪を良く知っているという意味では、自然法派の保守伝統思想(バーキアン)と、ポジティヴロー派のリバータリアン保守派(ベンサマイト)の思想は、いい勝負であり、共通している。 
しかし、リバータリアンの方が、庶民の目としてバーキアンよりもはっきりと全ての事態を見抜いているというべきだろう。リバータリアン派は、自然法の保守思想の隠遁生活を好む仙人たちと違って現実の生活で苦労している生活保守派であるから、道端に倒れている飲んだくれの浮浪者を救け起こそうなどとはしない、ただ通り過ぎるだけだ。 
ところが、これらに対して、自然権派の現実的官僚的保守主義者(ロッキアン)たちは、もっと恐るべき人々である。彼らは自分たちが握り締めている現実の政治権力を維持するために、あろうことか、人権派と歴史的な裏取引をするのである。人権派=リベラル派(かつ、旧来の社会主義者信奉者たち)の勢力と妥協して野合し、彼らをうまい具合に抱き込み、彼らの「福祉、福祉、何が何でも福祉」「福祉のために国家が存在するのだ」(福祉国家論)に迎合せざるを得ないように装って、自然権派と人権派の利権大連合を形成する。「ばらまき福祉」と「海外援助」と、その結果としての「この際税金を取れるだけ取ろう」という、役人根性丸出しの行動法則に従う。人権派からすれば、「もっとお金持ちと大企業に増税せよ」である。自然権派と人権派は、結局、野合するのである。 
日本の55年体制が自民党と社会党の露骨な野合内閣につながったのも、この考えに立つなら説明がつく。自然権派も人権派も、官僚たちは各種財団や福祉施設にポストを作って自分の生活を救うために天下りする、天下り役人の群れと化す。すなわち、増税主義者になってゆく。国家財政が傾こうが、民間経済が疲弊しようが、おかまいなしである。福祉が何よりも大切という人は、まず自らが奔走して税金をたくさん払おうとする人でなければならないはずなのに、である。 

2012年10月9日火曜日

実験する前に論文を書け、あるいは、無駄を認めよ

山中教授ノーベル賞受賞記念。mixi拙日記2008年01月11日コピペ。

先日、テレビ(爆笑問題のニッポンの教養)で、野矢茂樹という哲学科の先生(親しみ易い感じで私は好き)が、(役に立たない研究を認めよという意味?で)「無駄の価値を認めよう」って言ったら「無駄の価値を認めたら無駄じゃないじゃん」と突っ込まれてたけど、ネタだったのか。実利主義の発想で実利主義を否定していた。 

物質は有限なのでやはり無駄は良くない。思考は無限なので無駄という言葉は意味をなさない。でも、時間には限りがあるので、やはり無駄な思考そして行動はある。「実験する前に論文を書け」というのはそういう意味なのか。科学は哲学と違ってお金がかかるから、税金という有限のお金を使う場合、どうしても費用効果が問題になる。結局、アメリカと日本の違いは、金力の違いなのか。でも、なんだかんだいっても、「日本は凄い」という思いは変わらない。 

http://www.pref.yamagata.jp/business/information/6050002publicdocument200602244681750167.html 
◆ 記念講演 石坂公成氏 
「科学者の本性と科学技術を支えるピア・レビュー・システム」-(抄)- 

一部、メモ。 

【科学者の本性について】 
○ サイエンスの真実はネイチャーが決めてくれるものであるから、研究者は、ネイチャーのからくりを知るために研究をしている、あるいはからくりを利用し新しいものを作ろうとしている。サイエンスの価値は、小説や芸術と違い、批評家や大衆の評価によって決まるものではない。 
○ 研究は常識に合わないことを見つけるのが目的であるから、プロの研究者であるためには、「サイエンスに対して愚直であること」、「自分に対して正直であること」が必要である。結果がその時代の通説から外れても、公表すべきである。 
○ アメリカの科学者たちは、他人の研究計画を審査するために大変なエネルギーを費やしている。それは、自分の専門領域の学問の将来に最も大切であると思われる研究を自分たちの手で選択することによって、サイエンスの発展を維持していこうという責任感やプリビリッジの現れである。 
○ ネイチャーを相手にしている研究者は、行政官や政治家と違った人生観や社会観を持っているのが普通である。そのため、同じ専門の科学者によるピア・レビューが是非とも必要である。 

【ピア・レビュー・システムについて】 
○ アメリカのリサーチ・グラント・システムは、サイエンティストの価値観をサイエンスの発展に反映させるようなシステムである。日本でいう競争的研究資金支援システムであるが、これはまさに科学者の価値観に依存するシステムといえる。 
○ このリサーチ・グラント・システムは、独創的な考えやユニークな研究計画をその専門の一流の科学者が選択することによって研究費を配分するという方法である。このシステムで大切なことは、それぞれの申請書が、適切な申請者と同じ専門領域の科学者により詳細な研究計画が審査され、学問の将来に必要な優れた研究が選ばれることである。 
○ このシステムがアメリカで定着し拡充された理由は、研究者の総意に基づく研究が政府の課題を決めて行わせる研究よりも、はるかに成果があがることが実証されたからである。また、このシステムは、斬新なアプローチをする若手研究者を国内のみならず国外からもリクルートするという結果を招いたのである。 
○ アメリカのリサーチ・グラント・システムは、日本と比較し根本的な違いがある。一番大きな違いは、申請書の詳細な実験計画の記載である。つまり、研究計画は実験を行う前に書かれた総説である。日本の研究申請書は、過去の研究業績を載せて将来の研究計画は1 ページくらい、つまり設計図がないのである。 

■関連 
(2012.10.10/04:22追記)パワー、セックス、自殺
http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/04/blog-post.html

京大の山中伸弥教授かっこよす - おこじょの日記 
http://d.hatena.ne.jp/o-kojo2/20071121 
日本の科学行政に対する批判の記事なんか読んで見ると、官僚は日本の未来より自分の未来により関心があるようだ。 

それぞれの事情って感じ。そういう意味で、国会答弁が面白い。 

第159回国会 文部科学委員会 第22号 平成十六年 
文部科学行政の基本施策に関する件について調査 
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/159/0096/15905260096022c.html  
小柴プロジェクト(ノーベル賞)と和田プロジェクト(アイデアをアメリカに奪われた)の違いはどういう点にあるのか、日本の複雑な事情が語られている。それにしても、加藤紘一議員やるな。 


(2012.10.09./17:34追記)【ノーベル賞受賞】山中教授 事業仕分けを批判【2009年】
http://www.youtube.com/watch?v=zCfpxf8qFEs


(2012.10.09./22:20追記)科学者の道「ばかげてる」 受賞決定者、通知表で酷評
http://sankei.jp.msn.com/world/news/121009/erp12100920550004-n1.htm

2012.10.9 20:48
ジョン・ガードン英ケンブリッジ大名誉教授(AP=共同)
ジョン・ガードン英ケンブリッジ大名誉教授(AP=共同)
 科学者を目指すのはばかげた考え-。英メディアは9日、山中伸弥京都大教授(50)と共に2012年ノーベル医学生理学賞の受賞が決まった英ケンブリッジ大のジョン・ガードン名誉教授(79)が、15歳当時通っていた英名門のイートン校の通知表で酷評されていたと伝えた。
 「破滅的な学期だった」のひと言で始まる1949年夏学期の通知表で担当教師は、ガードン氏の学業について「満足するには程遠く、リポートの中には50点中2点というものもあった」と指摘。「(教師の)言うことを聞かず、自分のやり方に固執する」とした。
 将来の道も「科学者を目指すと承知しているが、ばかげた考えだ。本人にとっても教える側にとっても完全な時間の無駄」と書き、通知表を締めくくった。
 この年のガードン氏の生物学の成績は250人中、最下位。(共同)

2012年7月27日金曜日

印象派という革命

ghoti(@ghoti_sousama)/「印象派という革命」の検索結果 - Twilog(tw)

P46日本人が印象派絵画が好きな理由。日本人は何も貨幣価値だけで印象派絵画が好きなのではなく、日本美術には伝統的に花鳥風月というテーマがあると同時に、浮世絵には風景や社会の風俗を描いたものが多かった。

その結果、多くが非キリスト教徒であるために聖書に精通せず、そして古典文学(ギリシャ・ローマ神話)にも親しんでいない日本人にとって、風景や都会の風俗、そして静物をテーマにしている印象派絵画は、とても親しみやすいものなのである。

P51印象派が世に出てきた時代は、美術アカデミー、官立美術学校、そしてサロン・ド・パリ(以下サロン、官展)という体制に沿わないことには、画家としての成功が望めない時代だった。現代の画家のように貸し画廊で個展を開き自分の作品を「個性」や「創造性の自由」といった言葉で正当化できる時代でもなかったのだ。

そのうえ、幸か不幸か現代の自称も含めた芸術家たちは、印象派が直面したようなジャーナリズムの激しい批判にさらされることもほとんどないのだ。貸し画廊という商売が成り立つのは、自称「芸術家」が世の中にいかに多く存在するかがその背景としてある。

(6感想)個性を認めろじゃなくて個性を認めさせなければならない時代だったのだな。自由が認められている現代社会における自由は「なんちゃって自由」だな。本当の自由は自由が認められない社会においてのみ存在するということなのかなと(tw)
P54芸術家と職人。芸術家は知的な活動を行うエリートであるという概念に対し、職人は肉体労働者と見なされていたのである。そして、器用に制作された絵画や彫刻を工芸品と見なすならば、制作した人物の知性や理性が作品に反映されているものが芸術品と見なされた。

芸術先進国イタリアでは、16世紀を迎える頃にはすでに芸術家および芸術品という概念が生まれ、それらは職人および工芸品という概念から切り離されていた。フランスでは(略)イタリアの芸術運動を輸入することには熱心だった(略)。芸術家という概念は広まらず、

P52王立絵画・彫刻アカデミーの誕生。フランスにおける美術アカデミーの歴史は1648年に始まった。(略)パリには他のヨーロッパの都市同様にすでに同業者組合である「聖ルカ・アカデミー」が存在した。歴史は古く(略)1391年が(略)創設年とされている。

P55同業者組合(聖ルカ・アカデミー)の実情を知らなければ、後発の王立絵画・彫刻アカデミーの革命性は理解できない。(略)同業者組合では、作品販売における競合を調整し、品質の保持や互助活動も管理していた。

ヨーロッパのどの街でも同業者組合があれば、その街の組合に加入していないとその場所では仕事ができなかったのだ。そして日本の年季奉公と違い、弟子が親方に修業代や、住み込みの場合は食費等支払わなければならなかった。

その結果、他人ではなく家族や親戚内で親方・弟子関係を結ぶことが多くなっていった。実際に画家の人間関係を見渡すと、非常に濃密なのである。日本でも何代にもわたる陶芸家の一族があるように、洋の東西を問わず職人社会ではよくある話なのだ。

同業者組合では当然ながら仲間意識も強く、よそ者に対して排他的になることは想像に難くない。実際、このパリの同業者組合は加入者の数を制限しただけでなく、パリ市民や親方の子弟には組合加入料を安く設定し、反対に地方出身者や縁故のないものには高く設定した。

P56画家が組合に属さず仕事をしたいならば、王族の宮廷画家になるか、または定期市場で販売するか、もしくは僧院やパリの城壁の外などパリ警察権の外に住んで仕事をする他なかったのである。

そのため、1674年に城壁外区からパリの市街区域に入れられるまでは郊外とみなされたサン・ジェルマン・デ・プレに組合員ではない画家たちが存在したのだ。このような縁故重視の内情は、結果として作品の質の低下を招くことになった。

一方、「国王付きの画家」などの宮廷画家も縁故による世襲化を招いた結果、品質の低下へとつながっていったのである。17世紀のフランスは、当然のことながら階級社会であった。「第三身分」である平民の階層は、学者すなわちち知識人が頂点をなし、

その下に財務職保持者、そして医者や薬剤師などの専門職がきて、一番下の商人までが現代でいうホワイトカラーを構成していた。その下に、ブルーカラー(略)農場経営者がこのグループでは一番上の階層に属し、その下に画家や彫刻家が属する職人階級がきて、

P57いわゆるブルーカラーは、生活のために手を用いて仕事をする人々と考えられたため、職人階級に属する画家や彫刻家はエリートとはかけ離れた存在だったのである。ブルジョワ階級の人間が画家や彫刻家になることは、社会的に不名誉なこととみなされていたくらいに階級意識が強い時代だったのだ。

(略)その結果、職人芸と見なされていた自分の職業が、何としても高尚な「自由学芸」のひとつとして認識されるよう運動を開始したのである。そして、自意識を高めた彼らが手本として目を向けたのが、芸術先進国のイタリアだった。

「神の如きミケランジェロ」と讃えられ、芸術家という概念を確立した一人であるミケランジェロ、この天才を崇拝したジョルジュ・ヴァザーリ(1511-74)は、1550年に美術史の原点ともいうべき『芸術家列伝』を執筆したことで知られている。

そのヴァザーリが1563年にフィレンツェで創設したのがアッカデミア・デル・ディゼーニョだ。そして1571年以降、このアッカデミアに属する画家と彫刻家は、フィレンツェで仕事をするために義務づけられていた同業者組合に入会する必要がなくなったのである。

一方ローマでは、1577年にアッカデミア・ディ・サン・ルカ(聖ルカ・アカデミー)が創設され、画家や彫刻家の知的側面の向上と、彼らの職人から芸術家への社会的地位の向上が図られた。

P58ルネサンス芸術がイタリアからフランスに取り入れられたように、職人の同業者組合ではなく知性を重んじる文化的なアカデミーという概念も、イタリアからフランスに渡ってきたのである。

こうして、エリート意識を持ち始めた画家や彫刻家が、職人の身分に属する同業者と区別するためにルイ14世(在位1643-1715)に承認を願って創設したのが王立絵画・彫刻アカデミーだった。

このアカデミーで中心人物となり、影響力を発揮したのがシャルル・ル・ブラン(1619-90)である。ニコラ・プッサン(1594-1665)の押しかけ弟子だった彼は、美術理論だけでなく画家の理想像としてもブッサンを崇めた。その結果、ニコラ・プッサンの存在はフランス美術の「規範」となったのである。

P59(略)プッサンは、審美眼がなく教養にも欠ける大衆に迎合することをよしとせず、教会の祭壇画のような公的な仕事をできるだけ避け、裕福で教養のある上流階級の顧客のための私的な作品を制作するようにしていった。

その結果、単純に目だけを楽しませるような作品ではなく、知性と理性に訴えて感動させる作品を描くことができたのだ。そして、「主題は高貴でなければならない」と考えたプッサンは、大衆は単純に色彩に魅了されると見なし、それを俗悪と考えた。

そのため彼は絵画制作において、感覚に訴える色彩ではなく、知性と理性に訴えることができる「フォルムと構成」を重視したのである。こうしたプッサン の制作姿勢および理論が、アカデミーの公的な美の規範、すなわちフランスの古典主義となったのである。

アカデミーのエリート意識は、アカデミー会員が作品の販売を携わることを厳しく禁じた。貴族が商売をしないことと同じという考え方があった。実際に、ル・ブランは1662年にはルイ14世によって貴族として叙任され、年金(恩賜金)を受け取る身分になっている。

こうして王立絵画・彫刻アカデミーが、組織的に同業者組合(聖ルカ・アカデミー)との差別化を図った結果、当時の階級社会において卑しい身分と見なされた画家から、一気に第三身分での頂点に立つ知識人となり、高級官僚にもなったのだ。

P61(略)アカデミーでの付属美術学校では理論と実践において体系化され、規則に則った厳格な教育プログラムが編成された。このルブランが編成した職人ではなく芸術家を養成するための教育プログラムは、

1768年にロンドンで創設された王立アカデミー・オブ・アートをはじめとする他の美術アカデミーや、現代の美術大学や美術学校の手本にもなったのである。(略)

P63修業ではなく教育によって、職人階級との差別化を図ったのだ。そして同時に、画家たちをさまざまな拘束があった同業者組合から解放もしたのである。王立絵画・彫刻アカデミーに対しても、プッサンの美術理論に対しても時代が味方をした。
(36感想)面白い。感覚より知性を色彩よりフォルムと構成を重視するフランス古典主義の成立が、職人の地位向上のためであって、結果的に同業者組合の様々な拘束から自由を解放したというのは面白い。近代の夜明けの出来事として面白い(tw)。
P62 1661年にルイ14世の親政が始まると、フランスは絶対王政を確固たるものにするために、ルイ14世に仕えたジャン=バティスト=コルベール(1619-83)は美術も中央集権化することにしたのである。(略)ルブラン会長の下に確立したのがプッサンの美術理論を基にしたフランス古典主義だった(略)それから2世紀を経た19世紀後半においてもこの古典主義がフランスの公的な様式として通っていたことを考えるといかに印象派が前衛的だったかが想像できるだろう。

ニコラ・プッサンを知らずして、フランスの美は語れないのだ。(略)P63ルーヴル美術館など存在せず、イタリアでの美術学校が絶対視されていたため、コルベールとル・ブランは1666年にローマに支部「フランス・アカデミー」を創設した。

コンクールで「ローマ賞」を受賞した優秀な生徒を国費でローマに留学させ、古代美術や古典的絵画を模写させて学ばせたのである。そして帰国後は(略)アカデミーへの入会申請作品を提出し、アカデミー会員による厳しい審査の後に晴れて正会員になることができたのだ。

作品の評価にしても、販売が目的である同業者組合と違い、アカデミーにおいては売れるか売れないかとか、大衆に受けるか受けないかではない。文化人貴族であり、知識人であるアカデミー会員により、美術理論に基づく規範に則して裁定されたのである。

主題に関してもアカデミーによる公的な格付けが生まれた。その序列の頂点に立つのは、幅広い知識を要求され高貴と見なされた「歴史画」だった。そして次に格が高いとされたのが「肖像画」で、その下に順に「風俗画」「風景画」「静物画」となたのである。

当然、作品の価格もこれに準じた。このアカデミーによる歴史画至上主義は(略)19世紀においても、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)となっても、女性の入学を1897年まで拒んだのだのである。

P64主題の格にも身分にもこだわったアカデミーは、会員が作品を販売することは職人階級に属する卑しむべきことと見なした。1777年には新規約で、会員の作品販売は厳しく禁じられたのである。(略)しかし、画家である限り作品を売らなくてはならない。

1667年以降、正会員と準会員の作品を展示する展覧会を行うことになった。第一回の会場はパレ・ロワイヤル、1725年にはルーヴル宮のサロン・カレ(方形の間)で開かれ、そしてこの部屋の名前からアカデミーの展覧会が「サロン」と呼ばれることになった。

(略)肝心の値段に関しても、価格コントロールが目的のひとつである同業者組合では誰の作品であろうと変わらない価格設定であったが、アカデミー会員の場合はその画家に付随する名声によって報酬も決められるようになった。

ちなみにフランスでは18世紀になり、ブルジョワ層の拡大によって絵画を専門に扱う画商が誕生した。しかし、ファッションの世界でもオートクチュールとプレタポルテでは格も価格も購買層も違うように、

アカデミー会員にとって店先で作品を陳列して販売することは職人的であり恥ずかしいことで、決して貴族的でも高貴なこととも見なされなかった。そして画商は同業者組合には入れたが、アカデミーには入れなかったのである。「第二身分」である貴族階級においても、

貴族が画商のように商売に手を出すと貴族の身分を失ったのだが、王立絵画・彫刻アカデミーに通うことはできたのだ。このように芸術家としての社会的地位向上を望んだ結果、アカデミー会員に蓄積されていったエリート意識が、

19世紀後半においても前衛的な印象派たちを苦しめることになった。アカデミー会員にしてみれば、フランス古典主義を固持すること、イコール知識人兼芸術家としての社会的ステータスを維持することになったからである。

P65 17世紀末になると、アカデミー会員の間でプッサンを規範とするフランス古典主義に異を唱えるグループが出てきた。「プッサン派」に対して「ルーベンス派」と呼ばれるグループである。ヴェネツィア派の巨匠たちの影響を受け、豊麗な色彩表現で画面を構成した「王たちの画家、画家たちの王」ことピーテル・パウル・ルーベンスを規範とするグループである。

P66理性に訴えるデッサンのほうが感覚に訴える色彩よりも高尚だとするプッサン派に対して、ルーベンス派は自然に忠実な色彩は万人に対して魅力的であると主張したのである。ルーベンス派は、理性的なデッサンは専門家にしか受けないと信じたのだ。理性vs感性、デザインvs色彩の闘いであった。
(54感想)17世紀末の状況を「プッサン派」vs「ルーベンス派」、理性vs感性、デザインvs色彩、とオッカムの剃刀で斬ってくれたのは気持ちがいい。モヤモヤを簡潔に示してくれた著者に感謝。古典主義、バロック、ロココ、…印象派の流れが把握できたつもり\(^o^)/(tw)
そしてルーベンス派の主張どおり、18世紀になるとパリのブルジョワジーに人気を博し、その後は王侯貴族までも魅了したロココ絵画が生まれたのである。その創設者ともいうべき画家が、ルーベンスと同じフランドル出身で、この同郷の先輩画家やヴェネツィア派の影響を受けたジャン=アントワース・ヴァトーだった。ロココ絵画の特徴は、ヴァトーの「雅宴画」に象徴されるように恋愛の世界がメインテーマである。(略)

18世紀は色彩と感性が勝利したロココ絵画の時代がしばらく続くことになるのである。フランス美術史は、感性豊かで恋愛至上主義の時代を経験したのである。 しかし、なぜロココ絵画が宮廷までも席巻することができたのであろうか。

1715年にルイ14世が亡くなった祭、王位を継いだのは5歳の曾孫のルイ15世(在位1715-74)だった。その摂政として幼王を補佐したのが、ルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世(1674-1723)だ。オルレアン公は、幼いルイ15世の健康のためという名目で、宮廷を自分が嫌いだったヴェルサイユ宮殿からパリに移してしまったのである。その結果、宮廷人たちも先王時代の息が詰まるようなヴェルサイユ宮殿での生活から、パリのブルジョワ的な快適で私的な生活に喜びを見いだした。

P67 1723年にオルレアン公の摂政時代は終わり、宮廷はヴェルサイユに戻った。しかし、ルイ15世もその後継者で孫のルイ16世(在位1774-92)も、ルイ14世のように絶対的な権力で美術の流れまで統制しようとはしなかったうえ、18世紀に台頭してきたパリのブルジョワジーの影響もあり、ロココ絵画の時代が長らく続くことになった。

つまり17世紀が王国を中心とした男性的な文化だったのに対し、18世紀は貴族やブルジョワジーを中心とした女性的な文化となったのだ。宮廷も美術も感性豊かな時代、すなわち女性的な時代だったのである。しかし、いくらフランス古典主義(デッサン派)がロココ絵画(色彩派)の絵に隠れたかのように映ったとしても、18世紀においても王立絵画・彫刻アカデミーが権力を失うことはなく、美術界および社会において絶対的な権力を保っていた。

その頂点に立っていたのが「王室造営物総監」である。アカデミーの保護者が王室造営物総監であり、フランスの宮殿や城だけでなく庭園から美術品、そして家具までも取り仕切っていたのである。いわば、王室造営物総監は、フランス美術界の絶対君主なのであった。

1737年以降に定期的に開催されるようになったサロン(宮展)は、印象派の時代には公募制であったが、旧体制時代にはアカデミー会員と準会員に限られていた。前述したように、「文化人貴族」であるアカデミー会員にとってふさわしくない卑しむべき行為とされた「商売」に携わったものは、会員にはなれなかったため、世間に知られるためにはアカデミー入りすることが何よりも大切だったのだ。

P68 18世紀に台頭してきた新興ブルジョワジーにとって、現代と同じように成り上がりの地位から脱却するには、絵画収集が最も効果的なメソッドであったため、「よき趣味」を伝える媒体として評論家と画商も社会に登場してきたのである。

美術界において絶対的な権力を保持したアカデミーのおかげで、歴史画を頂点とした主題のヒエラルキーも守られてきたのだが、新興ブルジョワジーの間では古典的な教養を必要としない格下と見なされた風俗画や静物画の人気が浸透していったのである。そして肖像画においても、18世紀における絵画購買層の拡大により、王侯貴族向けの豪華な全身像だけでなく半身像や子供の肖像も多く描かれるよになるのだ。

しかし一方で、「見立て肖像画」や「寓意的肖像画」と呼ばれる歴史画風に演出を施した肖像画の人気は、当時の美術界における歴史画至上主義と、歴史画家に伴う名誉と特権をうかがわせる。このことは、アカデミーが保持していた権力や影響力の何よりの証なのである。

ヴァトーの繊細な叙情性を漂わせた雅宴画によって幕が開いたロココ絵画の時代も、時を経てブーシェやフラゴナールの時代になると、享楽性や官能性が強調されるようになった。

P69そして、ブーシェの庇護者(パトロン)だったルイ15世の公認の寵姫ポンパドゥール夫人(1721-64)も世を去った頃、フランスに新たな芸術様式である新古典主義が芽生え始めることになる。その発端となったのが、皮肉にもロココ芸術の絶大な庇護者だったポンパドゥール夫人の実の弟によってだった。

夫人の弟マリニ公爵アベル・フランソワ・ド・ヴァンディエール(1727-81)は、姉からイタリアで芸術への造詣を深めるように命じられ、1749年から2年にわたってイタリアに滞在した。そして、帰国後には、王室造営物総監の役職に就いたのだが、フランス美術界の絶対君主となったマリニ総監のイタリア留学の成果は、フランスにロココ様式に次いで新古典主義を広める結果となったのである。

18世紀後半に新古典主義が流行し始めた背景には、イタリアで1727年にヘルクラネイムと1748年にポンペイの発掘が始まり、古代の文化が一気に目の前に広がったことにある。そしてこの世紀の大発見は、考古学や廃墟ブームへと発展していったのだ。こうした背景もあり、最初にフランスで新古典主義が芸術様式として現れたのは建築だった。ポンパドドゥール夫人のために建てられたプチ・トリアノン宮や、パリのパンテオンがこの時代の新古典主義建築の代表的なものである。

古代ギリシャ・ローマの文化が、建築および彫刻に直接的な影響を与えやすいことは容易に想像ができるだろう。ちなみに庭園に関しては、18世紀にはフランス式の幾何学式大庭園様式から風景式庭園の時代となる。イギリス式庭園ともよばれるように、風景式庭園はイギリス発祥の庭園様式である。その着想源となったのが、ニコラ・プッサンのローマの親友であったロレーヌ出身の画家クロード・ロランの作品なのだ。

P70 プッサン同様に、フランス古典主義の立役者となったクロード・ロランの影響力は絶大で、P71 19世紀になってもアカデミーにとって「風景画の規範はクロード・ロラン」だったのだ。そのことは、近代的な価値観とアプローチで風景を描いた印象派への反動として表れることになる。

本来、フランス絵画における風景画の規範は、同じクロードでも印象派のモネではなくロランなのだ。クロード・ロランが描いた理想的風景は、それを大邸宅の庭に再現した風景式庭園としてイギリスで流行することとなった。時代は考古学・廃墟ブームということもあり、クロード・ロランの絵に描かれているように、ご丁寧にもローマ風の神殿や橋、または人工の廃墟まで庭園に再現したのである。

そして、この新たな庭園様式の流行はイギリスだけにとどまらず、ヨーロッパ大陸までも飛び火して英国式庭園として知られるようになる。フランスでは、マリー・アントワネットが、トリアノンの庭園もこの最新の庭園様式に造り替えさせることになる。

ポンパドゥール夫人をロココ様式を象徴するヒロインとするならば、この悲劇の王妃マリー・アントワネットは新古典主義を象徴するヒロインというべきであろう。事実、新古典主義の建築や家具は、彼女の夫の名前をとってルイ16世様式と呼ばれるからである。

絵画に関しては、ルイ15世時代の宮廷人はロココ絵画への嗜好が根強かったため、新古典主義の時代を本格的に迎えるのはルイ16世時代になってからである。1774年のルイ16世の即位から、フランス革命勃発の1789年まで、時代は啓蒙主義の発展で合理主義への傾倒をますます深めていった。

P72そしてドイツの美術史家ヨハン・ヨアキム・ヴィンケルマン(1717-1768)が、その著書『ギリシャ美術史模倣論』(1755)と『古代美術史』(1764)において、古代ギリシャの芸術こそが時代や民族を超越し、万人にとって普遍的な「理想美」であると説き、その美術理論は華美な装飾性と耽美性を誇ったロココ様式へのアンチテーゼとなった。そして、それは同時にヴィンケルマンに共鳴した画家たちにとって、新古典主義の美術理論の中軸となったのである。こうして感性豊かなロココ様式に対する反動から、合理的な新古典主義の時代となっていったのだ。

(略)プッサンの後継者となったのが、ダヴィッドだった。(略)

P73 1784年にはアカデミーの会員になったダヴィッドは、古代ローマを舞台にした歴史画『ホラティウス兄弟の誓い』(1785)を発表し、私情を捨てて国家のために忠誠を誓う兄弟たちを描いて名声を博したのである。ロココ絵画の恋愛至上主義から離れて、英雄的な愛国心を主題にした作品だ。作品の精神的な枢軸となっていたのは、感性ではなく理性であった。

崇高な精神を造形化したこの作品は、プッサンの絵画世界を彷彿とさせる厳格な画面構成や明確なデッサンによって、新古典主義の幕開けを告げていたのだ。こうしてフランス絵画は、その規範であるプッサンの古典主義に回帰したのだった。

1789年に勃発したフランス革命がフランス社会を激変させたように、反王権の革命主義者であったダヴィッドによって、王立絵画・彫刻アカデミーも時代に合わせた改革を迫られることになった。(略)結局、アカデミー自体は1795年に改革され、絵画・彫刻アカデミーと名前を変えることになる。そして、ブルボン家による王政復古後の1816年にフランス学士院の一部となり、

P74 芸術系の旧王立アカデミーであった音楽アカデミーや建築アカデミーと統合され、フランス美術アカデミーとして再出発したのだ。そして付属美術学校も建築学校と合併し、1819年に官立美術学校に改称したのである。

(略)ロベスピエール(1758-94)が失脚した後、ダヴィッド自身はリュクサンブール宮殿に4ヶ月ほど幽閉されてしまう。釈放後、改革されたアカデミーの会員だった彼は、ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)に見出され、1804年にナポレオンが皇帝に即位すると皇帝首席画家の地位を獲得した。

古代ローマの理性と倫理観を理想に掲げた革命主義者たちにとってだけでなく、自らを古代ローマ皇帝になぞらえ、帝政の権威を高めようとするナポレオンにとっても、古代ローマの理想美を着想源とするダヴィッドの新古典主義こそがふさわしい芸術様式だったのである。

しかし、ナポレオン失脚後、ルイ16世の弟ルイ18世(在位1814-24)による王政復古が起こると、革命後にルイ16世の処刑に賛成票を投じていたダヴィッドはその罪を問われ、ブリュッセルに亡命、そして、1825年に同地にて客死したのだ。(略)弟子のアングルが新古典主義を牽引していくことになる。

P75 アングルは長期にわたるイタリア滞在後、1824年にフランスに帰国、そして、サロンに出品した『ルイ13世の誓顧』(1824)の大成功で名声を博した。以後フランス美術アカデミーの会員として、官立美術学校の教授として、そしてプッサンとダヴィッドの後継者として、彼は新古典主義をフランス絵画の公式の様式として指導していったのである。

2012年7月22日日曜日

つくり風流(みやび)

 また桜の季節がめぐってきました。桜の花が咲くというのは、なにか浮き浮きしますね。なんとなくうれしいものです。「花開く」というと念願が成就したり、一人前として認められることの象徴のように言われます。
 特に満開の桜は爽快な匂いに包まれることもあり、ハッピーになりますね。花見はなんといっても満開の時がいいに決まっています。ところが世の中にはひねくれ者もいるもので、兼好法師は『徒然草』第一三七段で「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と言っています。
本居宣長は『玉勝間』「四の巻」でこれ槍玉に挙げています。「花はさかりに、月はくまなきを」見たいのが自然の人情なのに、無理にはかない無常を進んで味わうことを風流と思うのは、人の真情に逆らった「つくり風流(みやび)」だと批判したのです。

 たしかに兼好法師の感性には素直じゃないところがあるかもしれませんが、宣長は素直すぎて深みがないですね。兼好の言わんとしていることから学ぼうとし ていません。兼好は風情というのは花が咲き誇っているときだけでなく、散ってしまってそれを惜しむ気持ちからも感じられるものだというのです。引用しま しょうか。
花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛(いくへ)知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほ どの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書け るは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所 なし」などは言ふめる。
(訳)花は満開のときに、月は満月のときだけ見るものでしょうか。雨を眺めながら月を恋しいと想い、カーテンを降ろして春が終わっていくのを見届けないの も、(つらくて見れない切ない気持が察せられるので)それはそれであわれで情緒があるものです。まだ蕾の梢や花びらが散って庭に敷き詰められている様子な ども、見所が多いものです。歌の詞書にも「花見にまいりましたが、とっくに散ってしまっていたので」とも、「用事があっていけませんでした」などと書いて あるのは、(その惜しむ気持が伝わってきますので)「花を見て」と言うのと劣らず風情が感じられます。花が散り、月が欠けていくのを(切なく思う気持を) 慕う習いは当然のことなのですが、中には、この気持ちがわからない人がいて「この枝も、あの枝も、花が散ってしまった。もはや、花見はできない」などとい うようです。
 満開とほとんど散ってしまった桜を見比べてどちらが華麗かと言われれば、満開に決まっているでしょうが、そんなことではないのです。桜が散ってしまうこ とを惜しむ心があって、その心で見るから桜にひとしお風情を感じるということです。月も有明の月がよく歌われますが、どんどん欠けて残り少なくなっている 月ですね。夜明け前にやっと出るのですが、欠けている月を待ちわびるのです。
    名残の桜               有明の月
       IMG_6114.jpg
 滅び行くものを惜しむ気持がとても切ないわけです。それで余計に風情が深まるということです。宣長は、そんな哀しい気持をわざわざ進んで味わおうとする のは真情ではないと批判しているのです。つまり宣長は、兼好法師の美意識に仏教的無常観を感じて反発しているのです。宣長は仏教が入る以前の日本人の真情 に迫りたいと願っていたのです。
 無常ということは常でないことつまり変化して滅んでいくということですね。仏教は、人間の自我を含めて、すべての存在は滅びないような不滅の実体をもっ ていないとみなします。だから花も散るし、月も欠けるのです。その滅んでいく姿を見ると、己の体も自我も無常の定めに従って滅んでいくの を実感させられます。それで花や月を見てわが身のはかなさが身にしみるわけですね。だから風情が深くなるのです。
 でもそういう滅びの哀しみを深く味わったら、精神的に落ち込んでしまわないでしょうか。そこですね、このテーマは。そのはかない気持が文学や芸術に昇華されて表現されることによって、共感が興り、哀しみ が共有されます。するとそれが癒しになるのです。逆に哀しみを突き抜けて共感できる喜びが生じるのです。これはある意味つくり風流だけれど、そこにこそ共感を作り出す創造の喜びがあるということです。
 滅びゆくこと、死にいくことは哀しいことです。でもそれに立ち向かっていかなくては本当の感動を共有できません。この滅び行く実存にこそ、魂を震わせる美が、エターナルな意味があるというのが、仏教的無常観のメッセージなのです。




2012年6月4日月曜日

感じる脳 理性は道を示し、感情は決断をもたらす

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2006.07.20コピペ。

P24 現時点での私見を要約すれば、感情が心(mind)と身体(body)とに生じるとき、それは人間の喜びの、あるいは人間の苦悩の表出であるとい うこと。感情(feelings)は情動(emotions)に付け加えられた単なる装飾ではない。もつのも自由、捨てるのも自由、といったものでもので はない。

感情は有機体全体の命の状態の<顕れ>と見ることができるし、また実際しばしばそうである。命は綱渡り的活動であって、ほとんどの感情はバランスをとるための努力--絶妙な調節と修正の観念--の表出である。

人はあまりにもミスが多いから、それなしには全活動が崩壊する。もしわれわれは人間という存在の中に、われわれの卑小さと偉大さを同時にあらわすものがあるとすれば、感情こそそれである。
人前であがったり、プレッシャーを感じたりする感情の意味はなんなのか?
今の自分の能力では、戦うと負けるすなわち危ないから逃げろという心のメッセージだと思った。

だから、対策は自分の能力を高めるか、戦いを止めるか、いずれかである。で、私は戦いを止めたわけだが、今度は、憂鬱な感情が芽生えている。

これは、なんなんだぁーーー!!

戦えという心のメッセージなのか?

戦っても憂鬱、戦わなくても憂鬱、どういうわけだぁーーーー\(^o^)/


とま、そんなアホなことを思い浮かべながら、本を読んでいる。この本かなり手ごたえありそうな予感!♪

■アントニオ・ダマシオについて

1944 リスボン生まれ。リスボン大学で医学を学び、医師の資格と学位を取得し、その後アメリカに渡ってボストンの「失語症研究センター」で著名な神経学者ノーマン・ゲシュヴントの指導を受けて認知神経科学の研究に取り組んだ。

その後、母国の大学病院に戻ったがふたたび渡米してアイオア大学で臨床と研究に就き、近年はアイオア大学神経学部のいわば看板教授として大活躍していた。

現在、USC(南カリフォルニア大学)がダマシオ夫妻のために、作った--脳と創造性の研究所--で研究に勤しむ。

研究所の目的の一つは、

「社会的な情動」が、経済、ビジネス、政治制度、にどのように寄与するかを研究することだという。

ダマシオは、ホメオスタシス調節のうち進化的にもっとも高い(新しい)レベルのものが感情であり、そのすぐ下のレベルにあるのが情動であると考えている。

著書

1994 「デカルトの誤り」(Deacartes、Error)邦題「生存する脳」
1999 「事象の感覚」(The Feeling of What Happens)邦題「無意識の脳 自己意識の脳」
2003 「スピノザを求めて」(Looking for Spinoza-Joy,Sorrow,and the Feeling Brain)邦題「感じる脳」 

P25 情動とその関連反応は身体と連携しているのに対し、感情は心と連携している。

思考がどのように情動を誘発し、身体的情動がどのようにしていわゆる「感情」という種類の思考になるのかを研究すれば、それにより、心と身体という、シームレスに編まれた一個人の人間有機体の明らかに異質な二つの側面についての特別な見解がもたらされるはずだ。

思考ー>情動ー>感情
↑ーーー心ーーー↓

情動 emotion 泣く、心臓がドキドキetc
感情 feeling 喜怒哀楽etc(本書では、感触、感覚ではない)
心  mind 身体 body
意識 consciousness
思考 thinking

P30 たとえばスピノザが、「愛とは、外部の原因の観念を伴った、喜びという一つの快の状態にすぎない」というとき、彼は感情のプロセスと、情動を引き起こしうる対象についてある観念をいだくプロセスとを、明確に区別していた。(中略)

生物はさまざまな対象や事象に対して情動的に反応する能力を備えている。そしてその反応の後になにがしかの感情パターンが生じ、そのときある種の快や苦がが必然的な感情要素になっている。

スピノザはまた、好ましからざるアフェクトネス(訳者註:affectは感情と訳されるが、本書の重要なキーワードfeelingと区別す る)--つまり、不条理な激情---を克服する唯一の望みは、理性によって誘発されるより強力でポジティブなアフェクトゥスでそれを打ち負かすことであ り、アフェクトゥスの力とはそういうものである、という考えを提示した。

「アフェクトゥスは、それより強い反対のアフェクトゥスによってのみ、制限したり無効にしたりすることができる」(スピノザ) 

「感情より勘定」という、感情を理性によって制御しようとする標語があるが、それは正確ではなかった。理性によってプラスの感情を誘発し、それでもってマイナスの感情を制御するとするのが正しい解釈。

なんだ、一枚感情をかませただけじゃないか、と言うかも知れないが、言葉のあやで思わず「なるほど」と思ってしまう。つまり、そう考えることで、一つの心地良い感情が生まれたからだと思う。

問題は、理性によって感情そして情動をどうやって生み出させるかだ。まあ、スピノザがそういっているのだが、、、そして、そこにこそ人間の価値があると言っているようだ。

P32 「人間の心は人間の身体の観念である」、スピノザは心と身体という平行的発現のもたらす自然のメカニズムの原理を直観で理解していたのかも知れな かった。後で論じるように、心的プロセスは身体に対する脳のマッピング--情動と感情を引き起こす事象に対する身体反応を描写する一連のニューラル・パ ターン---にもとづいていると私は確信している。(中略)

明らかにスピノザは、二世紀後、ウイリアム・ジェームズ、クロード・ベルナール、ジムグント・フロイトが求めることになる生命調節の構造を探り出 していた。さらに、スピノザは自然の中に意図的な構想を見ることを拒絶し、身体と心は、広くさまざまな種において多様なパターンで組み合わせることが可能 な構成要素から成っていると考えた。この点はチャールズ・ダーウィンの進化的思考と一致していた。

人間の本性についてこうした新しい概念を持ったスピノザは、善と悪、自由と経済という概念をアフェクトゥスや生命調節と関連づけた。そして社会 的、個人的行為を律する規範は、人間についてより深い知識--われわれの<内なる>「神」または「自然」につながる知識--によって形成されるべきである と言った。 

 「人を殺さない」「人をいじめない」「人を差別しない」「人に同情・共感する」「人に援助の手を差しのべる」など、現在は個人間でばらつきのある感情、そ してそれにもとづく行動は、進化が進めば、自動化されるということなのだろうか?(たとえば、人を殺そうと思うと呼吸困難になってしまうとか)

人類は、複雑な環境に対処するために、ホメオスタシス(自動的な生命調節装置)のもっとレベルの高い非自動的な装置(感情)を獲得した、そう進化したということなんだが、個人にとっても、人類にとっても、ホメオスタシスとして機能するのだろうか?

著者も、スピノザも、そういっているのだが、、、そう願いたい。

複雑さのために、ホメオスタシスでもって自動的な解決ができなくなって、そこで滅びずに、高級なホメオスタシスすなわち非自動的な感情を獲得した というなら、やがて、これらは本来のホメオスタシスに回収されて、それが完成された暁には、感情も消えてなくなって、めでたしめでたし、ってことになるの か?

いまの人類は進化の上では発展途上で、仕方なく感情や意識をもっているが、やがて、なんでも自動的な解決がなされるようになって、それと同時に、感情や意識もいらなくなるということか?

それならそれで、面倒くさくなくてよい気もするが、あまりに味気ない。でも、意識が無いのだから、それすら感じないわけだから、それはそれでいいのか!?

脳が複雑になったから、環境が複雑になったのか?環境が複雑だから、脳が複雑になったのか?たぶん前者だと思う。だって、簡単な生物たくさんいるし。

複雑な生き方をしないと生きていけないように、身体が進化してしまったんだと思う。C.エレガンスのような洗練された生き方だってできただろうし、ユリの花のように気高く美しく生きれたわけだし。(いまさら、そんなことを言っても始まらないけど)

感情を意識を持たなきゃならないほど、複雑に進化して、そのために複雑な機械や社会制度をつくって、環境を複雑にして、管理しきれないから、自動 化できるものはどんどん自動化して、余った時間でまた複雑なものをつくったり、自動化したはずの機械が誤動作しないように、維持・管理するのに時間を費や して、生きてゆく環境をどんどん複雑にしてる。

生きてゆく環境を簡単にすることが、新たな複雑さを生み、さらに、それを簡単にすることでまた複雑になって、永遠にそれを繰り返す。

とにかく、意識を持ち続けたいのだな、と。

明日のことが分ってる単調な自動的な人生がいいのか、明日のことが分らない起伏のある非自動的な人生がいいのか、、、

ま、そんな人類ですが、私からしたら、同じ人間とは思えない。

P218 すべての生物が、その複雑さに応じて、そして、環境における生態的役割の複雑さに応じて、命の基本的な問題の自動的な解決策を等しく手に入れられるようになっているのだ。

しかしわれわれ人間の命の調節は、そのような自動的な解決策以上のものであらねばならない。なぜなら、われわれの環境は物質的にも社会的にも非常に複雑だから、生存と幸福に必要な資源の奪い合いにより、いとも簡単に対立が生じるからだ。

食物を手に入れるとか伴侶を探すという単純なプロセスが、複雑な営みになる。

P219 自然はホメオスタシスという自動的な装置を完成させるのに数百万年という時間をかけてきたが、非自動的な装置には数千年の歴史しかない。

しかしその自動的な生命調節装置と非自動的な生命調節装置には、それ以外にも著しい違いがある。一つの大きな違いは、「目標」、そして「方法と手段」に関係することだ。自動的な装置の「目標」、そして「方法と手段」は、十分に確立されていて効果的である。

しかし非自動的な装置に目を向けると、たとえば他人を殺さない、といったように、概ね合意されている目標がいくつかある反面、多くの目標が依然として交渉に委ねられ、まだ確立されていない。病人と貧困者をどう助けたらいいかなどはその例だ。
P275 「観念の観念」という考え方は、多くの点で重要だ。たとえば、それにより関係性を表象したり、象徴を創造したりする道が開ける。同じように重要なのは、それにより自己という観念を創造する道が開けることだ。

もっとも基本的な種類の自己は二番目の観念である。なぜ二番目か?なぜなら、それは二つの一番目の観念にもとづいているからだ。

一つは、われわれが知覚している対象の観念、もう一つは、その対象の知覚により変化する身体の観念である。自己という二番目の観念は、それら二つの観念--知覚される対象と知覚によって変化する身体--の関係性の観念である。(中略)

P278 スピノザは、心のプロセスはかなりの程度身体のプロセスに映し出されてはいるものの、身体は心が身体の内容を形成する以上に心の内容を形成する、とほのめかしました。

心と身体は相互作用するということなのだが、身体が心に及ぼす影響は、逆の場合よりはるかに大きいということ。

で、思い出すのは「唯識」。唯識の方(スピノザもそう、デカルトだってそう)は、内省的に、それを導き出しているが、ダマシオは、それを脳科学の言葉で裏づけている。

・唯識の世界:もう一人の私について
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki01.html
花を見ている時、花を認識している「私」、そしてその花を美しいと考えている「私」、更に花を美しいと考えている私を見詰めているもう一人の「私」がいる」
花を認識している「私」は、知覚している対象の観念。
その花を美しいと考えている「私」は、知覚により変化する身体の観念。
もう一人の「私」は、自己という二番目の観念で、二つの観念の関係性の観念。

という風に、見事に対応しているのが面白い。よく読んでみたら、唯識の「私」に対する見方ではなくて、割りと一般的な「私」に対する見方ですね。三人の私というのは。ただ、ダマシオは「観念」、唯識は「識」という言葉を用いてます。


関係ないけど、デカルトが心と身体(思惟と延長)を分けたのは、魂は不滅とする教会からの破門を恐れたからで本当にそう思っていたかどうかは分ら ないみたいですね。一方のスピノザは、身体とともに魂も無くなると言った(すなわち心と身体を分けなかった)もんだから(ユダヤ教の教えを受け入れなかっ たから)、財政的に援助していたにもかかわらず彼の属していたコミュニティのシナゴーグから追放されてしまうんですね。

(まあ、彼は、地位とか名誉とかお金とかより自分の自由な思考に一番の価値を置いていた人のようです。ごく稀にそういう人がいるんですね。爪の垢でも煎じてのみたいくらい)

洋の東西を問わず、宗教はみんな心(魂)と身体は分けている、なぜだろう?というか、魂しか認めてない?身体は仮のものとみなしている?無いものを有るとしておけば、確かめようが無いので、絶対バレない、ということなのかしら。(追記2012.06.04/06:37 苫米地さんによれば、お釈迦さんは、魂とかあの世とか、否定どっちでもいいとした人だと聞く。参照

第七章「自己保存としての感情」(参照

P351 スピノザの解決方法はまた、ネガティブな情動--恐れ、怒り、嫉妬、悲しみ、のような激情(パッション)--を誘発しうる刺激と、情動を実行するメカニズムそのものとの関係を断ち切るように要求している。

そしてそれを、ポジティブで有用な情動を誘発しうる刺激で置き換えるべきである、としている。この目標を実現するためにスピノザは、ネガティブな 情動に対する耐性をつくりポジティブな情動を生み出すコツを徐々に獲得する方法として、ネガティブな情動的刺激を心の中で想像して練習することを推奨して いる。

これは要するに、いわば「抗情(アンチ・パッション)」抗体をつくりだすワクチンを開発している心の免疫学者としてのスピノザ、ということになる。(中略)

P352 スピノザの解決法は情動のプロセスに対する心の強さに依存し、またその心の強さは、ネガティブな情動の原因の発見と情動のメカニズムの知識に依存している。

人が自覚しなければならないことは、情動を誘発しうる刺激と情動誘発メカニズムとの基本的な分離であり、それを自覚すれば、人はネガティブな情動 刺激を、もっともポジティブな感情状態を生み出せる<熟慮した><情動を誘発しうる刺激>で置き換えることができるとした(ある 程度、フロイトの精神分析にもこうした目標があった)。

ちなみに、今日、情動と感情の仕組みに対する新しい理解で、スピノザの目標はそのぶん実現可能なものになっている。

ユーミンが「心が傷つくとそれを修復しようとして何かが出る。それが創作なんじゃないのか」と言っていたのを思い浮かべる。

悲しみは他人への思いやりや支援の、怒りは不正をただすための、嫉妬は自助努力の、原動力だったりする。

ネガティブな情動は、両刃の刃で、使い方を誤ると、とんでもないことになってしまうが、上手く利用すれば、自分にとっても社会にとってもプラスの成果物を生む。

それが、ポジティブで有用な情動を誘発しうる刺激で置き換えるべきである、ということなのだろう。

ネガティブな情動の暴走は、免疫システムの暴走、すなわちアレルギー反応みたいなものか!?

■関連
・脳科学者・茂木健一郎とユーミンが語る作品の創作――アップルストア銀座での対談をレポート  2006年05月09日 17時04分更新
http://ascii.jp/elem/000/000/353/353206/
・松任谷由実と脳科学者の茂木健一郎氏、アップルストア銀座で公開対談 2006年5月9日(火) 00時31分
http://www.rbbtoday.com/article/2006/05/09/30685.html

P349 人はこの神を恐れる必要はない。なぜなら神が人を罰するようなことはないからだ。また神からの褒美を期待して勤勉である必要はない。なぜなら何も降ってこないからだ。唯一恐れるものがあるとすれば、それは自分自身の行動だ。

もし他人に優しくなければ、それはただちに自分自身を罰することであり、内なる平穏と喜びを実現する機会をただちに自ら拒むことことである。(中略)

だから人の行動は神を喜ばせることを目指すのではなく、神の本性と一致することを目指すべきである。そのようにすれば、なんらかの幸福がもたらされ、なんらかの救済が実現する。
 
原題「スピノザを求めて(Looking for Spinoza-Joy,Sorrow,and the Feeling Brain)」の通り、この本は、感情(feeling)と情動(emotion)のメカニズムについての解説が半分、後の半分は、スピノザの倫理を神経 生物学、脳科学の言葉を使って説明したり、スピノザの人生について語ったりしている。(あるいは自説のソマティック・マーカー仮説を、スピノザによって補 強した?)

スピノザは倫理の根拠を神にではなく、自然すなわちコナトゥス(自己保存の努力)に置いた。ダマシオは、自然すなわち生物のホメオスタシスに置く。そして、(スピノザがそうしたように)ホメオスタシスを社会的次元に拡張する。

感情は進化的にもっとも(新しい、非自動的な)高レベルのホメオスタシスであるという仮定がそれである。

過去の快/不快の経験が記憶されている場所(前頭前皮質)を損傷した患者が、理性的な思考はできても社会的に適切な判断ができないという事実から、意志決定をしているのは、合理的な思考ではなくて感情、と主張する。

湯川秀樹の言葉を思い出す。

科学でこられると、好きでもなくても正しいものは正しいと認めなならん。ところが言葉とか他の手段を使いますと、納得するについて好き嫌いが大い に関係する。(中略)専門の物理学でも、ある法則なり理論体系なりをよろしいと納得するときは、そこに何か美しいものを感じているわけです。そこで、科学 では好きでも嫌いでもないというけれども、実は心の奥の方では好き嫌いにつながってつながっている。(人間にとって科学とはなにか)

藤原正彦も養老孟司も同じようなことを言っていたと記憶している。私はいつも感情的に決断しているので、この説は、心強い。

ダマシオ夫妻のために、USCが創った-脳と創造性の研究所(Institute of the Study of Brain and Creativity)-の目的の一つは「社会的な情動(共感、当惑、恥、罪悪感、プライド、嫉妬、羨望、感謝、賞賛、憤り、軽蔑など)」が、経済、ビジ ネス、政治制度にどのように寄与するかを研究することだという。

合理的思考が共通ルールになっている現代社会ではあるが、合理的思考だけでは、感情が許さないというか、何か釈然としないものがある。

それはきっと、今の合理的思考が意志を持たない機械にしか適応できない決定論的合理性だからなのだと思う。意志を持ったすなわち感情を持った人間に適応できる非決定論的合理思考が望まれる。

あと、

本書は、思考、情動、感情の関係は下記のようなループ(実際はかなり複雑)をなすとしているが、

思考ー>情動ー>感情
↑<ーーーーーー↓

情動ー>感情のプロセスのメカニズムは非常に詳しい説明がなされているが、思考すなわち言葉への言及はまったくなく、思考は感情に影響を及ぼすと しただけで、思考ー>情動のプロセスのメカニズムの説明はなく、言葉(思考)は感情に相当影響していると思っている私にとっては、不満が残った。(それが 目的の本じゃなかっただけで、本が悪いっていってるわけではありません。本は素晴らしいです)

それから、脳内の細かい話は、それはそれで良いけれど、ファンタジーが欲しいと思った。そういう意味では、「心の先史時代」や「歌うネアンデルタール」辺りが面白そう。
http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060716

・人類の祖先についての最近のお話 その2
http://plaza.harmonix.ne.jp/~onizuka/Ancestors2.html#language
 
 


2012年6月2日土曜日

ランダムと一様あるいはミクロとマクロ

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2010.07.09コピペ。『感性の起源』(都甲潔著)より (注:太字はghotiによる、ただし、見出しは除く)

エントロピー増大の法則

P61 第2章で述べた通り、エントロピーとはランダムさを表す目安のことである。ランダムなほどエントロピーは高いといえる。これを理解するには、「覆水盆に返らず」という中国の諺が重宝する。この諺は、中国古代周王朝を守り立てた功臣にまつわる故事に由来する。

読書や川での釣りばかりしてり男の妻が愛想をつかしていったん去った後、夫が出世したことを知り、復縁を迫った。しかし、夫は静かに庭先に盆の水 をこぼし、「この水をすくって、もとの盆に戻してみよ」と、とうてい不可能なことを言った。妻に「済んだことは元に戻せない」と諭したのである。

この賢い夫は、周の文王の太公(祖父の意)が待ち望んだ人物ということで、太公望と呼ばれた。

この太公望の言葉は、熱力学におけるエントロピー増大の法則に他ならない。自然は、放っておくと、エントロピーの高い状態、つまりランダムな状態、巨視的に見て一様である状態へと移っていき、元には戻れない。

小さい容器に入っているより、地面に浸み込んで広がったほうがエントロピーは高いのである。太公望が、エントロピー増大の法則という物理学の大法則を知っていたはずはないが、経験的には私たちも合点いくことである。

ランダムと一様との関係をもう少し詳しく説明しよう。ランダムとは微視的に見て、という意味であり、一様とは巨視的に見て、という意味である。つまり、私たちが目にする現象は一般に巨視的な現象であるが、それは非常に多くの要素(原子、分子、化合物)からなっている。その要素は熱により常に、わずかではあるが、ゆらいでいる。

そのゆらぎ方がランダムなのである。このランダムなゆらぎは、目では見えない微視的な事象であるが、非常に短い時間で動きを何度も繰り返し、か つ、たくさんの要素があるので、多くの要素全体では空間を埋め尽くす方向へ進み、その全体としての様子を目で見ることができる。これが拡散であり、系は一 様な状態へと向かうのである。

その結果、エントロピー増大の法則とは、自然界が巨視的に見て一様に進むことを主張する法則ということになる。先のゾウリムシはランダムに行動することで、生活空間をできるだけあまねく、広く一様に探ることでエサにありつこうとしていたのだ。

赤インクをコップの水に一滴たらしてみよう。たらした点からインクがゆっくりと水中に広がる。拡散である。最初は赤色の濃淡の勾配がコップに形成 される。そして十分な時間がたつと、コップいっぱい一様に薄い赤になる。赤インクがコップの水全体に行き渡った結果の平衡状態である。

拡散の原因、それはエントロピー増大のためである。赤インクが、そのたらした一点にとどまり、色の形を作ることは許されないのだ。自然は一様化を迫る。

さらにもう一つの例を挙げよう。ゴムを引っ張るとゴムは縮もうとする。なぜだろうか。これもエントロピー増大の法則で理解できる。ゴムは一般に分 子がたくさん結合した高分子である。ゴムが縮んだ状態と、伸びきった状態を考えて見よう。縮んだ状態はいくらでもあり得る。どんな形でもあり得る。しか し、伸びきった状態はただ一つしかない。

P64 これは、何を意味するのか。縮んだ状態はくちゃくちゃとランダムで、伸びきった状態は秩序を保っている。言葉を換えると、縮んだ状態の方が高いエントロピーをもつ。それゆえ、ゴムは縮もうとするのだ。

自然は一様化の方向へ進むのか

自然はエントロピー増大の法則に従う。そうすると、形ある状態がが自分で勝手にできるのはおかしいということになる。エントロピー増大、つまり、 ランダムさが増すだけである。一様な状態へと向かうのみである。エントロピー増大、つまり、自己組織化は、エントロピー増大の法則に矛盾しているのであろ うか。

まず、エントロピー増大の法則は、閉じた系にのみ適応されることに注意したい。閉じた系とは、外部とエネルギーや物質のやり取りががないという意味である。つまり、外部から何も入ってくるものがないときだけ、使える法則なのである。

それゆえ、この法則は非平衡系では使えないことがわかる。生命はエントロピー増大の法則に従う必要はない。それでは外部から閉ざされた平衡系だと どうなるだろうか。先に紹介した脂質ニ分子膜やシャボン玉の膜の形成、雪の結晶形成がそれに該当する。実は、エントロピー増大の法則をもう少し詳しくいう と、この法則は系を構成する要素が相互作用しない理想系の場合を述べている。つまり、互いに相互作用しない要素の集まりについての法則だ。

ところが、脂質ニ分子膜では、脂質の疎水鎖が水分子をはじき、ファン・デル・ワールス力という弱い引力で脂質(石鹸)分子同士が引き合う。一様に散らばろうとはせず、集まろうとするのである。これはエントロピー増加とは逆の方向である。

この事実がからわかるように、要素が互いに相互作用し合う系では、要素間の力(つまり内部エネルギー)とエントロピーのかね合いで、系の状態が決まる。熱力学の言葉では、内部エネルギーとエントロピーからなる自由エネルギーが、系の状態を決める。

構造化と一様化

生命は物質の特別な状態だ -その統一的理解に向けて-

理化学研究所 ゲノム科学総合研究センター特別顧問 和田 昭允 氏
(掲載日:2006年10月16日)

生命とは一体何だろう? と考えるとき、生物を“物質世界の一部”と見るか“科学論理の外の作品”と見るか、つまり機械論(Mechanizm)と生気論(Vitalism)の立場がある。

そうは言っても、われわれの意識の中では生命界は“特区”のように際立っているのが普通だろう。これが自然科学がこれまで物質・生命の二大領域になんとな く分かれてきた由縁だ。しかし今日、両者の統合的理解が進んでおり、基礎から応用に亘る広い科学技術の発展の晴れの舞台となってきている。もし我が国がこ れに後れをとるならば、先進国としての将来はない。

科学史は、人類が営々と磨き上げてきた「計測」と「数理」が、森羅万象の暗黙知を形式知に変えて来た自然理解の歴史だ。1944年、量子力学の創始者の一 人であるエルウィン・シュレーディンガーは、「生命とは何か?」と題する小冊子の中で、物質としての生命の特徴をつぎのように見事に描写する。

「結晶のようなものは、構成分子が同じ構造を三方向に何度も何度も繰り返してゆく単純な“周期性の秩序体”だ。生物の場合は違う。複難な有機分子が単調な 繰り返しをしないで、だんだん大きく広がった凝集体をつくり上げてゆく。すなわち、分子それぞれが個性のある役割を演じ、全く同等の働きをするということ はない。このようなものを“無周期性の秩序”と名付けよう。ひとつの遺伝子、あるいはおそらくひとつの染色体全体、は“無周期性の秩序体”であると考えら れる」。

“生命は物質の特別な状態だ”と明確に言い切り、それまで単純な物質が相手だった物理学の射程距離内に生命を置いたわけである。

かくして20世紀の後半、生命探究の最前線はついに物質・生命両世界の国境に達した。ワトソンとクリックが、1953年にX線回折という物質構造解析の手 法によって“DNAという物質が遺伝という生命現象に持つ意味”を発見したことで、生物学はゲノムを基盤とする美しい形式知体系に変貌した。

これを受けて生命科学は定量的精密科学に生まれかわる。80年代から、生命、さらには人間、という超複雑な相手にも十分立ち向かえる能力を持った物理・化 学計測システムが次々に開発された。大規模で総合的な研究が始まり、得られた膨大な形式知群は情報科学が解析・整理・蓄積し、人類の共有資産となる。

今日科学者は人間・生物一般・地球環境の将来に対する「予想・予報」、また、医療薬や育種などの「デザイン可能性」で、社会の信頼を獲得し、種々の要請に応えられるようになった。

21世紀科学における最大の課題は“生命という特別な物質状態”の全貌を明らかにすることに他ならない。これは科学・技術の全分野が力を合わせなければな らない大事業で、そのイニシアティブを取った国が知の世界を先導するだろう。日本も遅れてはならない。

最後に、“我こそは”と思っている方々に、中谷宇吉郎の先見性に溢れた至言を送る。

『人間には二つの型があって、生命の機械論が実証された時代がもし来たと仮定して、それで生命の神秘が消えたと思う人と、物質の神秘が増したと考える人と がある。 科学の仕上仕事は前者の人によっても出来るであろうが、本当に新しい科学の分野を拓く人は後者の型ではなかろうか』。 (“簪を挿した蛇”『中 谷宇吉郎随筆集』 岩波文庫(1988))
(わだ あきよし)

英語版 | 中国語版


参考文献
和田 昭允   『物理学は越境する―ゲノムへの道』 岩波書店(2005)
和田 昭允   『生命科学の境界を越えて』 月刊「バイオニクス」1~12月号 オーム社(2005)
和田 昭允   『発想のメリーゴーラウンド』 月刊「バイオニクス」1~12月号 オーム社(2006)
岸 宣仁   『ゲノム敗北』 ダイヤモンド社(2004)


和田 昭允 氏のプロフィール:
1952年東京大学理学部卒業 1971年同教授 1989年同理学部長 1998年理化学研究所ゲノム科学総合研究セン ター所長 2003年同センター特別顧問 現在、同特別顧問のほか、お茶の水女子大学理事、日本学術会議連携会員、横浜市青少年育成協会副理事長、同協会 「横浜こども科学館」館長、東京理科大学特別顧問などを務める。 生物・生命の研究に物理学的手法を導入し、生物物理学という新しい学問分野を切り開き、 1981年には科学技術庁(当時)の振興調整費による「DNAの抽出・解析・合成」プロジェクトの委員長として、その後、激しい国際競争となった「ヒトゲ ノム解析」を世界に先駆けてスタートさせた。

2012年5月27日日曜日

言語とは何か。それは、音で表わされた神経の刺激の複写である

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2010.07.10コピペ。

(1)(2009.11.28)真理とは、それが錯覚であることを忘却されてしまった錯覚である
とニ-チェは言う。しかし、その神経の刺激から発して、われわれ人間の外にある或る何らかの原因へと推論を進めるのは、すでに根拠の原理の誤った不当な適用の結果である。言葉は決して、人間の外の或る何らかの原因そのままの妥当な表現などではない

なぜなら、言葉は、それを作る人間に対する事物の関係を表示しているだけであって、しかもその関係を表現するのに、きわめて大胆な隠喩が、つまり「跳び越し」が、援用されている。すなわち、一つの神経の刺激がまず形象に移される場合に、第一の隠喩が援用される。そして、この形象がさらに音に模造される場合に、第二の隠喩が援用される。

これらの隠喩ではそのたびごとに、全く別種の新しい領域の真只中への、それぞれの領域の完全な跳び越しが、行なわれる。だから、われわれは樹木とか、色彩とか、雪とか、花とかについて語る場合、そうした事物そのものについて何事かを知っていると信じているが、しかしわれわれが所有しているのは、根源的本質とは徹頭徹尾一致しないところの、事物の隠喩以外の何ものでもない

(2)ディーツゲンは『人間の頭脳活動の本質』(小松攝郎訳・岩波文庫、1952 年)
我々は事物を見うるであろうか。否、我々は眼へ及ぼす事物の影響を見るだけである。我々は酢を味うのでなく酢の我々の舌に対する関係を味うのである。その結果が酸っぱいという感覚である。酢は舌に対してのみ酸っぱい感じを与え、鉄に対してはそれを溶かし、寒さに対しては固まり、熱に対しては流動体となる。そのように酢は、それが空間的・時間的に関係する客体が異るのに応じて、種々の作用をする。例外なしにすべての事物がそうであるように、酢は現象する。しかし、決して酢自体だけで現れるものではなく、常に他の諸現象と関係し、接触し、結合してのみ現れる。

視覚が樹木を見るのでなく、樹木の見える所だけを見るように、思惟能力もまた客体そのものをでなく、客体の認識されうる精神的側面を受け入れるだけである()。 その結果として生まれる思想は、脳髄がある客体と結合して産んだ子供である。思想には一方における主観的思惟能力と他方における客体の精神的性質とが現れ る。すべての精神作用はある対象を前提とし、その対象が外に存在し、何らかの方法で感覚的に知覚され、或は見られ、聞かれ、嗅がれ、味われ、或は触れら れ、要するに経験される一つの対象から生ずるものである。(p.32~33)
(3) 『差異と反復』P20
頭脳は交換の器官であるが、心は、反復を愛する器官である。(たしかに、反復は頭脳にも関 わっている。しかし、それはまさに、反復が頭脳にとって恐怖でありパラドックスであるからだ。)ピユス・セルヴィアンは、正当にも二つの言語を区別した。 ひとつは、諸科学の言語であって、等号に支配され、どの項(辞項)も他の項によって代理されうるものである。他は、抒情的な言語であって、どの項も代理さ れえず、ただ反復されることによってしか可能でないものである。
(4) Twitter / 宮台真司: なぜ村上春樹がスパゲッティがどうたらストッキングがこ ...
なぜ村上春樹がスパゲッティがどうたらストッキングがこうたらミニマルな自己関与モチーフを反復するのか。答えは〈世界〉と〈世界体験〉の差異化のためです。
現象学(フッサール)と関係論・構造主義(ソシュール)は、 虫の目(ミクロ)と鳥の目(マクロ)と視点の違いはあれど、相対論として近親性がある。まるで兄弟のよう。

(5) 虫(むし)の目 鳥(とり)の目 魚(さかな)の目
「虫の目」は近いところで、複眼をつかって様々な角度から注意深く見る目のこと。「鳥の目」は虫では見えない広い範囲を、高いところから俯瞰(ふかん)する目のこと。そして「魚の目」とは水の流れや潮の満ち干を、つまり世の中の流れを敏感に感じる目のことです。


1主観認識(世界体験)              虫の目
2客観認識(世界)                 鳥の目
3行動(世界への働きかけ)           魚の目

とみることもできる?!

(注)太字は、ghotiによる

2012年5月26日土曜日

立ち去ろうとしない過去

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2010.01.08コピペ。

(1)時間は待つと長いが追われると短い。
(2)嫌な時間は長いが楽しい時間は短い。
(3)子供の時間は長いが大人の時間は短い(ジャネーの法則)。

このごろ時間があっという間に過ぎる。もう朝か、また飯か、てな感じだ。

時間に対する意識。
 速く過ぎて欲しいと思うときはゆっくり進み(退屈な話、待ち時間)
 ゆっくり過ぎて欲しいときは速く進む(楽しい時間)
過ごし方による違い。
 新鮮かマンネリか
 濃密か希薄か

http://jvsc.jst.go.jp/being/seibutsujikan/002/2-3in.html

時間の感覚は変化量と変化率で測れる。前者の表現は長い短い、後者の表現は速い(早い)遅いである。

円環的感覚 またやってくる感覚
直線的感覚 もうやってこない感覚

ニーチェには『悦ばしき知識』(1882~1887)という著作がある。哲学や芸術は苦悩する人間を描くことで生命の成長やその闘争力を高めると いう主旨なのだが、そこでニーチェは苦悩には2種類があると見た。健康で満ち溢れた者がその力を放出できずにもてあましている苦悩と、疲れて不健康とな り、自分からも逃れたがっている者の苦悩である。ロマン主義的な苦悩はおおむね後者にある。
 ニーチェはこのことから、ロマン主義者が永遠や静寂や神を求めるのは、自身の苦悩や欠陥を世界の本質に由来するものとみなして(つまりは責任逃れをして)、それによって世界との逢着を錯覚するような慰みを得るためなのではないかと考えた。https://1000ya.isis.ne.jp/1023.html

初めに言葉があったのであろうか。いや、ゲーテが見たように、初めに行為があったのだ。
http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/04/blog-post_28.html

エントロピー増大の法則(熱力学第二法則)について、思い出したこと

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2010.07.09コピペ。

エントロピー増大の法則。放って置くとバラバラになってしまうという自然の掟。構成要素が相互作用しない系に適用される。要素が相互作用する系では、要素間の力(内部エネルギー)とエントロピーの兼ね合いで、系の状態が決まる。パワー、セックス、自殺 (2)
先日、苫米地さんと藤末さんの対談で、哲学や空の話(50分辺りから)が出てくるが、

宇宙=物理空間(エントロピー増大)+情報空間(エントロピー減少)

というお話をされていた。

情報空間は、抽象度がどんどん上がっていく、行きつく先が、「空」である。
空と色と無
T:だから実は宇宙の、。
色即是空空即是色は間違ってるっていうの
いろんなとこで言ってるんだけど、
ていうのは、色即是空ってことは色って物質のことだよね?
物質は空である空は物質つであるっていうと
空を下に下げちゃうじゃん。
F:うん
T:空は上だから。空包摂色空包摂無だったらいいわけ。
だから色即じゃないのよ、色即是無、無即是色、空包摂色空包摂無が正しい
ということなのですが、情報空間が説明なしに自明のこととして語られていた。関心の在りかが、そこではないので、自明のこととして、語られたわけだが、

私は、情報空間がどのようにして物理空間から生まれるのか、そこに関心があったので、この対談を聴いて、対談の主旨とは別に、あることを思い出してしまった。

私が思い出したのは、『感性の起源』で、物理空間の中に、エントロピーが増大する系と減少する系が存在するということ。すなわち、構成要素が相互作用しない系は、エントロピーが増大し、構成要素が相互作用する系は、エントロピーが減少する。(参照

で、エントロピーが減少する系とは、何かというと、自己組織化現象、すなわち生命のことである。生命がさらに抽象化(脳の神経細胞の相互作用による)されると、意識が生まれる。

この意識こそ、情報空間である。

ということで、物理空間からいかにして情報空間が生まれるか、(物理的)構成要素の相互作用によって、情報空間が生まれる、という話、でした。

対談は、これはこれで、刺激に飛んだ話がいっぱいあって、楽しかった。何度も聴きたい対談である。

包摂半順序、空と色と無に関連して、思い出したニーチェの言葉

一枚の木の葉が他の一枚の木の葉と全く同じといったことは断じてない、ということは確実である。同様に確実なことだが、木の葉という概念は、こうした個別的な諸角の差異を任意に棄て去ることによって、つまり相異点を忘却することによって、形成されたものである。

パワー、セックス、自殺 (2)

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2009.01.29コピペ。

エントロピー増大の法則というのがある。放って置くとバラバラになってしまうという自然の掟。覆水盆に返らずの世界だ。構成要素が相互作用しない系に適用される。要素が相互作用する系では、要素間の力(内部エネルギー)とエントロピーの兼ね合いで、系の状態が決まる。(ref.→『感性の起源』P65)

人間の構成要素は細胞である。人間の生は細胞間の円滑なコミュニケーションによって支えられている。

http://
www.tousa-nu.com/contents/tousa/frame.htm

病気とは細胞たちのディスコミュニケーション。いくつの言語があるのか知らないが、糖鎖という言語は重要らしい。ポイントは(遺伝子によって決ま る)タンパク質を修飾する糖鎖はタンパク質の形によって決まり、遺伝子によって書かれていないということ。当然、それによるコミュニケーションも遺伝子に は書かれていない。規定はされるが決定はされない。人間の会話と一緒だな!


「糖鎖の不思議な点は、遺伝子情報の地図をもとにつくられた、タンパク質が合成されたあとに付加される点です。ゲノムの情報をこえた、不思議な情 報がかくされているのです」と語る。もちろん、糖鎖を付加したりとったりするはたらきをもつ酵素はタンパク質であるので、遺伝子の情報にもとづいている。 しかし、その酵素がどこでどのタンパク質に糖を修飾するのかは、なぞである。



特定の遺伝子によって、決められた細胞に糖が付加される例もある。私たちのABO式血液型は、特定の酵素の存在が直接、どの血液型になるかに結び ついている。ヒトの血液型の基本型はO型である。O型の糖鎖をつくる酵素はすべてのヒトがもっている。それに加えてA型、B型のヒトは、それぞれA酵素、 B酵素をもつ。A酵素、B酵素は、それぞれ別の種類の糖を糖鎖に追加する。
AB型は、両方の酵素をもっているため、A型の糖鎖とB型の糖鎖の両方をともにもつ状態になる。このように、ABO式血液型は、特定の遺伝子から合成される酵素が、決められた部分の糖鎖を決定することが、はっきりと明らかになっている例だ。


血液型の違いって、糖鎖の違いだったんだね!

ということは、神経細胞の会話の内容も糖鎖によって違ってくる、すなわち血液型によって違う!?


* 血液型と性格について否定する一部の研究者に、脳に血液型物質が存在しないと主張する人がいるが、それは全くのウソである。血液型物質は、たまたま血液中から発見されたので「血液型」と名前が付いたが、脳も含めて体中に存在している。
* ABO 式血液型物質は、遺伝子の解析による研究によれば、人類がまだ中央アフリカにいる10万年前ぐらいにA型からB型が発生した。ヒトとゴリラやチンパンジー などの類人猿は同じ血液型物質を持っている場合もあるが、それらは遺伝子的にはおのおの別に発生したものである。従って、ヒトのABO式血液型は10万年 前ぐらいに発生したと言ってよい。

(中略)

さて、ここで、この受容体には「脱感作」という状態がある、ということなのです。神経伝達物質がずっと存在していると、つまり刺激が長く続くと、 受容体に神経伝達物質が結合しているのにチャンネルが開かない、つまり刺激に反応しなくなっちゃう状態です。むちゃくちゃ興奮し続ける危険性を回避してい るわけですね。

さてさて、能見さんの本に出てくる、血液型別興奮曲線ですが、この脱感作となんらかの関係があると思われませんか?

* O型は、一度興奮しだすと(あがったりすると)収まらない。
* A型は、普段はO型ほど安定しているわけでもないが、興奮の後、開き直って安定する。
* B型は、喜怒哀楽も激しい方であるが、AやOのような興奮状態がない。
* AB型については、能見さんは2つの波を重ねてかいていますが、B型同様、AやOのような興奮まではいかない? 突発的感情変化、というのはよくいわれますが。
http://
www010.
upp.so-net.ne.jp/abofan/tousa.htm

真理とは、それが錯覚であることを忘却されてしまった錯覚である

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2009.11.28コピペ。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」みたいに冬の夜空に熊を見てしまう能力が真理を希求する。昨日からずっと気になっているデカルトの言ったこ と、

言葉は、それが表示する物とは少しも似ていないが、それでも我々にその物を理解させる。・・・自然もまたなんらかの記号を定め、我々に光の感覚を 持たせることが-この記号はその感覚に似たものをなにもその内に持っていないとしても-どうしてできないであろうか。デカルト『世界論』

これは人間の比喩によって理解する能力(ソレはアレと同じ)に通じる。ニーチェが言ったことと重なる。

すべては比喩(錯覚)なんだ。(ソレとアレの間には何ら必然的因果関係はないのに)ソレをアレとして見る。知らないことは自分の知っていることに置き換えて理解する。比喩能力は抽象化能力にもパターン認識能力にもつながる。これらの能力は個体維持に役に立っている。

と同時に、殺風景な世界(混沌)に彩り(秩序、すなわち「真理」と「虚偽」あるいは「善」と「悪」とか)を添えて味わい深いものにしている。

(メモ)
ニーチェの小論文『道徳以外の意味における真理と虚偽について』について考察した小論文を部分転写
http://rose.lib.hosei.ac.jp/dspace/bitstream/10114/2561/1/kyoyo_86_ikeda.pdf

プラトンでは、現実の感覚的世界を超えたところに、超感覚的なイデアの世界が構想された。しかも、この超感覚的なイデアの世界こそが真なる存在の世界であり、感覚的な生成と変化の世界は虚偽の世界、見せかけの世界である、とされた。

ニーチェはこのように、現象の背後にある不変不動の実体的世界こそが真実の存在で、しかも理性による知の対象であり、感覚的な生成し変化する現象の世界は虚偽の世界である、とみなす思惟の形態を形而上学とする。

しかも西欧の思惟において、このような形而上学的実体論が、キリスト教と結びついた。神的なものが超感覚的彼岸であり、この世は感覚的仮象の此岸であるとされ、真の世界である彼岸と虚偽の世界である此岸とが、対立された。

こうした思惟の形態は、それまで彼岸に、神的なものに向けられていた誠実さが、此岸に、自然と人間そのものに向けられるようになったとき、捨てられたはずだった。しかし、近代的思惟のうちにも世俗化された形でそのように二つの世界を対立させる形而上学的思惟が残った。

理想、良心、理性、最大多数の最大幸福、等々。これら完全には到達しえない範型が定立されて、真実のものとされ、これらの範型に対して真ではない現実が、否定的なものとして扱われる。現実が依然として否定的な真ではない世界とされ、真実の世界と対立される。

プラトン主義的キリスト教が、形而上学的思惟が、いまだに「巨大なぞっとするような影」をとどめている。》そこでこうしたプラトン主義が、逆転さ れなくてはならない。形而上学的思惟が否定され、克服されなくてはならない。これが「神は死んだ」ということであり、同時にこれは、形而上学的思惟の拒否 を意味する。

同時にこれはまた、価値ありとされていたものが、すべて無価値・無意味となることを意味する。これまで価値ありとされていたものの虚偽性が暴露さ れ、すべての至高の価値が価値を喪失すること、すなわちニヒリズムを意味する。いまや結局、すべての価値は無によってしか支えられていないことが、明らか となる。

すべてのものが支えがなく、無の中に投げ出されている。この無を埋めることはできない。すなわち、形而上学的思惟に立ち戻り、超感覚的世界を外に 立て、それによって支えることは、もはやできない。もはや何の支えもなく、無によってしか支えられていないことを、われわれは受けとめなくてはならない。

『道徳以外の意味における真理と虚偽について』

言語とは何か。それは、音で表わされた神経の刺激の複写である、とニ-チェは言う。しかし、その神経の刺激から発して、われわれ人間の外にある或 る何らかの原因へと推論を進めるのは、すでに根拠の原理の誤った不当な適用の結果である。言葉は決して、人間の外の或る何らかの原因そのままの妥当な表現 などではない。

なぜなら、言葉は、それを作る人間に対する事物の関係を表示しているだけであって、しかもその関係を表現するのに、きわめて大胆な隠喩が、つまり 「跳び越し」が、援用されている。すなわち、一つの神経の刺激がまず形象に移される場合に、第一の隠喩が援用される。そして、この形象がさらに音に模造さ れる場合に、第二の隠喩が援用される。

これらの隠喩ではそのたびごとに、全く別種の新しい領域の真只中への、それぞれの領域の完全な跳び越しが、行なわれる。だから、われわれは樹木と か、色彩とか、雪とか、花とかについて語る場合、そうした事物そのものについて何事かを知っていると信じているが、しかしわれわれが所有しているのは、根 源的本質とは徹頭徹尾一致しないところの、事物の隠喩以外の何ものでもない。


一枚の木の葉が他の一枚の木の葉と全く同じといったことは断じてない、ということは確実である。同様に確実なことだが、木の葉という概念は、こうした個別的な諸角の差異を任意に棄て去ることによって、つまり相異点を忘却することによって、形成されたものである。

すなわち彼は、絶対に個別的な事例という点からすれば、概念はその絶対的な個別性を、他との絶対的な相異を、棄却してしまっているとする。しか し、それだけではない。いったん「木の葉」という概念が形成されると、この概念は、自然の中にはさまざまな木の葉のほかに、まさに「木の葉」そのものとで も言えるようなものが、つまり例えば一つの原型が、存在しているかのような考えを呼びさます。

そしてすべての木の葉が、この原型に則って織られ、描かれ、測られ、彩色され、縮らされ、塗られるが、しかし下手な手でそれがなされる結果、どの一葉の見本も、原型の忠実な描写としては正確ではないし、信頼するに耐えないものに終っている、といったように見なされる。

すなわち彼によれば、概念が形成されることによって、すべての絶対に個別的な事例に対して一つの原型が、一つの原因が、存在しているかのような考えを呼び さます。がまさに存在していると前提されるこの原型、概念こそ、すべての絶対に個別的な事例の捨象であって、抽象にすぎない。

「個別的な現実的なものを看過することによって、われわれに概念が、それにまた形式が、与えられる。これに対して自然は、いかなる形式も、いかな る概念も、それゆえまたいかなる種属も、知らない。自然が知っているのは、ただ、われわれにとっては近づき難い定義しえないXだけである。」

われわれが知っているのは、多数の個別化された諸行動、したがって等しからざる諸行動のみである。しかしわれわれは、その等しからざるものを棄却 することによって等置し、ある人間を誠実だと言ったりする。しかもさらに、その人間が今日あのように誠実に振舞ったのは、彼の誠実さのためだ、と言ったり する。

これはしかしまたしても、「木の葉」そのものがさまざまな木の葉の原因である、というのと同じである。われわれは、誠実さと呼ばれるような本質的 な一性質については、全く何も知らない。われわれが知っているのは、多数の個別化された諸行動でしかないのに、それらから一つの「隠れた特性」を定式化し て、それに「誠実さ」という名称を付与し、しかもこの誠実さの原型こそが存在して原因となっている、といったように考えられる。

このようにニーチェは概念の形成に関して述べ、それと関連してとくに、概念における絶対的な個別性の棄却、また、概念で固定されたそのもの自体とでも言えるものの存在や原因の想定、に触れている。

「真理とは、隠喩、換喩、擬人観の動的な一群である。要するに、人間的諸関係の総和である。それが、詩的にかつ修辞的に高められ、転用され、修飾され、そ して長く使われたのちに、ある民族にとって確固たるもの、規準的なしの、拘束力のあるもの、と思われるようになったものである。すなわち、真理とは錯覚で ある。

ただそれは、錯覚であることが忘れられてしまった錯覚である。真理とは隠喩である。ただそれは、使い古されて、感覚的に無力になってしまった隠喩 である。真理とは貨幣である。ただそれは、その肖像が消えてしまって、いまや金属であってもはや貨幣ではないと見なされるようになった貨幣である。」

このように、隠喩である直観、さらにそれが昇華された隠喩である概念、これらのうえに成立して「真理」と称されているものは、それ自体が隠喩にす ぎない、とされる。あるいは換言すれば、錯覚であるとされる。ニーチェはもはや、真理と錯覚との間に、つまり真理と虚偽との間に、区別を設けない。

直観が、概念が、事物の隠喩であって、事物そのものに、事物の本質に、由来しているわけではない。それらが、事物の本質に対応していない、と言う のではない。もしそう言うとすれば、その主張は、独断的な主張であって、反対の「対応している」という主張と同様に、証明不可能だろう。正しい知覚が成立 している、つまり、客観が主観において適切な表現を得ている、ということがそもそも矛盾だらけのナンセンスである。

「なぜなら、主観と客観との間というような二つの絶対に相異なる領域の間には、いかなる因果性も、いかなる正しさも、いかなる表現もありはせず、 せいぜい、美的な関係があるにすぎない。という意味は、全く異質な言葉への暗示的な転移が、吃りながらの翻訳が、あるにすぎない。しかし、それをなすため にもいずれにせよ、自由に詩作し自由に虚構をなす中間領域と媒体力とを、必要とする。」

認識における事物の本質との対応、主観における客観との対応、といったことは否定される。直観による形象の形成が芸術的な隠喩の形成であり、そも そも人間の主観が芸術的に創造する主観である、というだけではない。主観と客観との間の対応、といったことは独断的な主張であり、仮定にすぎないのであっ て、その両者の間には美的な関係があるにすぎない、とされる。

ニーチェからすれば、自然法則の認識にしてからが、直観的「隠喩を土台にした、時間や空間や数の諸関係の模倣」にほかならない。どうしてカントのように、現象についてして唯一の絶対的な不変の学的認識が成立している、などという信仰が必要なのか。

結局のところ自然法則の認識にしても、生の保存に起因し、生の保持に快適な諸結果を生むように固定された因襲、偽装された慣習、そうしたものとしての隠喩、錯覚、虚偽、ということになろう。

ニーチェは以上のように、認識の「遠近法」という言葉はいまだ用いていないにしても、すでに、あらゆる真理を相対化し、真理と虚偽との間に区別を設けず、すべてのものが偽装であり、隠喩であり、錯覚であり、虚偽である、という見解に達している。

こうして彼はすでに、真偽の彼岸に立っている。唯一の絶対的な不変の認識、といったものは否定される。それは、そうしたものとして凝結ざれ固定された虚偽にほかならないもので
あることが、暴かれる。

ニーチェは、ゲーテの生と芸術とが示したような成熟を拒まれた人間、円熟を拒まれた人
間で、ある意味でその思想は初期においてほとんど出揃っていた、とする見方があるが、確かに、これまで検討してきた彼の思索についても、そのことが言える。

これまで見てきた真理についてのニーチェの見解は、権威あるものと見なされてきた真理の価値を、引きずり落す。真理の不動性、不変性に対して動揺を与え、われわれの認識が生のそのつどの立場との関係のものである、という見解に導く。

カントにおいて不変不動の認識と見なされたユークリッド幾何学とニュートン物理学はともに、その後ある意味で克服されざるをえなかった。認識の問題についてのそうした経緯の背後では、たとえ間接的であったにしても、このニーチェ的見解の出現も一つの意義をもつと言える。

ただしかし彼はいまの場合、知性の本質を、認識の本質を、生の保存という根源から解釈する。そしてその結果、真理とは偽装された慣習である、確固とした因襲であるといったように、道徳の成立についてと同一に近い解釈が、真理についても見うけられる。

 

2012年5月24日木曜日

数量化と視覚化と 感覚と感情と言葉と


◆五感の法則
・神経密度で並べると「①視覚 ②聴覚 ③味覚 ④嗅覚 ⑤触覚」の順
・人は豊かさと共に目、耳の満足から舌に移り最後は「匂いや肌触り」に移る
・視覚や聴覚を満足させる商品は大量生産が可能である(テレビや音楽等)
・味覚、嗅覚、触覚はコピーをして大量につくるには難しい
・特に「匂いや肌触り」にこだわるようになると「本物志向」になる
・匂いが一番本能に直通する、匂いをかぐとすぐに寄ってくる(鰻屋商法)
・上記の法則から相手の理性を無くすには
①単調なリズムの繰り返し②アルコール③セックス・・・で攻める
ref.→http://highenergy.tumblr.com/post/23612450125/62-php

言葉は感性(感覚や感情)や理性の一つのかたち(結晶)、手振りや身振りや声振りをより洗練、精緻化したもの。混沌より秩序を好む脳の性質なのだ(と思う)。絵画が視覚の言葉なら音楽は聴覚の言葉。ref→http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/04/blog-post_28.html

羊を数えるというのは素朴な感情としてなんとなく理解できます。(数の起源。同じもの似たものがたくさんない世界だったら数えようという気持ちな んか起きなかっただろう。単位性をもった同じ種類のものがたくさんあるのが生物の特徴。生物だから同じものが次々に再生産できる。 →http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/05/blog-post_24.html 工場で同じものをたくさん作るというのは生物として当たり前の行為なんだなと!ww)

が(というともはや吉幾三http://www.youtube.com/watch?v=LnHjtLEIdGQを 思い出す)、暑さ寒さを数えようなんて普通は思わない(と思う)。いったい全体、何でまた温度を数えようと思ったのか!?現在は長さや重さそして音も色も 数字で表現できる。そのうち匂いも味も痛みも悲しみも愛も恋も数字で表現するようになるのだろう。G(ギガ)ワロス!T(テラ)オソロシア!E(エクサ) ウラヤマシス!とか、その兆候だ!

不 均質なもの変わってしまうものすなわち感性的(感覚、分割できない、アナログ、ヒューリスティック、直感、暗黙知)なものを、均質なもの変わらないものす なわち理性的(言葉、分割できる、デジタル、ロジック、論理、形式知)なもので置き換えたい、そういった脳の性質があるのだ(と思う)。あいまいなものを ハッキリさせたい、不確実なものを確実なものにしたい、謎を謎のままにして放っておけない、といった欲望(不安)があるのだ(と思う)。

分かる、知る、にも二通りあって、

(1)パッと分かるという方法と(2)順を追って分かる方法がある。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=923010731&owner_id=3300442

『数量化革命』(A・W・クロスビー) P024 数量化と視覚化 - 新しい思考様式
ブリューゲルの『節制』は、1560年当時の西ヨーロッパの都市住民の心をとらえた事物を、いわばルネサンスの夢を寄せ集めた花香のような作品で ある。(中略)そのテーマとは、秩序を求める切実な欲求である。『節制』の登場人物の多くはなんらかの形で、現実世界の素材を均質な単位の集合体として、 すなわち数量として、視覚的に表現する作業に従事している。

http://www.print-collection.info/kohanga/bureghel.htm

『数量化革命』(A・W・クロスビー) P026 プラトンとアリストテレス - 古代の思考様式
プラトンとアリストテレスは今日の私たちより、人間の理性を尊重していた。だが、人間の五感については、自然の事物を正確に計量しうるものではな いとみなしていた。それゆえ、プラトンはこう述べている。すなわち、魂が五感を通じて何かを考察する場合には、「魂は肉体によって生成界に引き込まれ、進 むべき道を見失って混乱し、はてはめまいをおぼえる」と。(中略)

私たちは、二人のギリシャの哲人が想定していなかったカテゴリーが存在することを確信している。それは、合理的に計量できる程度に均質で、その結 果に基づいて平均値や中間値を計算できる事物というカテゴリーである。計量する際の人間の知覚は信頼できるのかという疑問に対しては、力織機や宇宙船や保 険統計表など、人間の知覚に対する信頼に基づいて人類が達成した数多の業績を指摘しよう。(中略)

人類がおさめた成功は偶然の所産に過ぎなかったのかもしれない--人間はしばしばこのよにして、つまり、うまくいくか否かという基準によって、おのれの能力を評価している。プラトンとアリストテレスほどの聡明な哲学者が、数量的に把握できる事物というカテゴリーの採用に逡巡したのは、なぜなのだろうか?(中略)

アリストテレスはこう述べている。すなわち、数学者はさまざまな次元を計量するに先立って、「あらゆる感覚的な性質を、たとえば重さと軽さとか、硬さとその反対の性質とか、さらに熱さと冷たさとか、その他の感覚的な反対的諸性質を剥ぎ捨てる」。(中略)

現代の人々は、重さや硬さや温度という性質も「その他の反対的諸性質(ghoti>善悪とか二項対立で捉えられる性質を指すと思われる)」 も、数量的に把握できると主張するだろう。こうした主張は、これらの性質そのものからしても、人間の精神に特有の性質からしても、絶対的に正しいとは言え ない。児童心理学者によれば、人間には独立して存在する個体を(クッキーが三つ、ボールが六個、豚が八頭というように)数える能力が先天的に備わっている ことが、幼児期においてすら認められるという。

ところが、重さや硬さという類の性質は、前述したように独立した量としては認識されない。これらは状態であって、独立して存在するものの集合体で はないうえに、しばしば流動的に変化する。それゆえ、これらの性質をあるがままの状態で数えることは不可能である。まず心の目で観察して、なんらかのルー ルに基づいて数量化し、しかる後にその量を数えるという手順を踏まなくてはならない。

こうした操作は、長さをはかる場合には容易に実行できる。(中略)だが、硬さや熱さ、速度や加速度となると--いったい、どうやって数量化すれば よいのだろうか?(中略)たとえば、14世紀のオックスフォード大学マートン・カレッジの学者たちは、ものの大きさだけでなく運動や光、熱さや色といった とらえどころのない性質も計量する価値があると考えるにいたるや、その考えをおしすすめ、さらに飛躍して、確実さや徳や優美さといった性質まで数量化しよ うと試みた。

たしかに、温度計が発明される以前に熱さを計量する方法を考え出せるのであれば、確実さや徳や優美さを数量化の対象から除外しなくてはならない理由はないだろう。


■関連リンク
・「味覚センサ」都甲・林 研究室
http://ultrabio.ed.kyushu-u.ac.jp/
・五感センサ(目次) -【クローズアップ・サイト】センサ - Tech-On!
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20081120/161524/?ST=sensor
・東原和成のホームページ 匂いの研究
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/biological-chemistry/touhara/touhara.html