「幽霊の正体見たり枯れ尾花」みたいに冬の夜空に熊を見てしまう能力が真理を希求する。昨日からずっと気になっているデカルトの言ったこ と、
言葉は、それが表示する物とは少しも似ていないが、それでも我々にその物を理解させる。・・・自然もまたなんらかの記号を定め、我々に光の感覚を 持たせることが-この記号はその感覚に似たものをなにもその内に持っていないとしても-どうしてできないであろうか。デカルト『世界論』
これは人間の比喩によって理解する能力(ソレはアレと同じ)に通じる。ニーチェが言ったことと重なる。
すべては比喩(錯覚)なんだ。(ソレとアレの間には何ら必然的因果関係はないのに)ソレをアレとして見る。知らないことは自分の知っていることに置き換えて理解する。比喩能力は抽象化能力にもパターン認識能力にもつながる。これらの能力は個体維持に役に立っている。
と同時に、殺風景な世界(混沌)に彩り(秩序、すなわち「真理」と「虚偽」あるいは「善」と「悪」とか)を添えて味わい深いものにしている。
(メモ)
ニーチェの小論文『道徳以外の意味における真理と虚偽について』について考察した小論文を部分転写
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プラトンでは、現実の感覚的世界を超えたところに、超感覚的なイデアの世界が構想された。しかも、この超感覚的なイデアの世界こそが真なる存在の世界であり、感覚的な生成と変化の世界は虚偽の世界、見せかけの世界である、とされた。
ニーチェはこのように、現象の背後にある不変不動の実体的世界こそが真実の存在で、しかも理性による知の対象であり、感覚的な生成し変化する現象の世界は虚偽の世界である、とみなす思惟の形態を形而上学とする。
しかも西欧の思惟において、このような形而上学的実体論が、キリスト教と結びついた。神的なものが超感覚的彼岸であり、この世は感覚的仮象の此岸であるとされ、真の世界である彼岸と虚偽の世界である此岸とが、対立された。
こうした思惟の形態は、それまで彼岸に、神的なものに向けられていた誠実さが、此岸に、自然と人間そのものに向けられるようになったとき、捨てられたはずだった。しかし、近代的思惟のうちにも世俗化された形でそのように二つの世界を対立させる形而上学的思惟が残った。
理想、良心、理性、最大多数の最大幸福、等々。これら完全には到達しえない範型が定立されて、真実のものとされ、これらの範型に対して真ではない現実が、否定的なものとして扱われる。現実が依然として否定的な真ではない世界とされ、真実の世界と対立される。
プラトン主義的キリスト教が、形而上学的思惟が、いまだに「巨大なぞっとするような影」をとどめている。》そこでこうしたプラトン主義が、逆転さ れなくてはならない。形而上学的思惟が否定され、克服されなくてはならない。これが「神は死んだ」ということであり、同時にこれは、形而上学的思惟の拒否 を意味する。
同時にこれはまた、価値ありとされていたものが、すべて無価値・無意味となることを意味する。これまで価値ありとされていたものの虚偽性が暴露さ れ、すべての至高の価値が価値を喪失すること、すなわちニヒリズムを意味する。いまや結局、すべての価値は無によってしか支えられていないことが、明らか となる。
すべてのものが支えがなく、無の中に投げ出されている。この無を埋めることはできない。すなわち、形而上学的思惟に立ち戻り、超感覚的世界を外に 立て、それによって支えることは、もはやできない。もはや何の支えもなく、無によってしか支えられていないことを、われわれは受けとめなくてはならない。
『道徳以外の意味における真理と虚偽について』
言語とは何か。それは、音で表わされた神経の刺激の複写である、とニ-チェは言う。しかし、その神経の刺激から発して、われわれ人間の外にある或 る何らかの原因へと推論を進めるのは、すでに根拠の原理の誤った不当な適用の結果である。言葉は決して、人間の外の或る何らかの原因そのままの妥当な表現 などではない。
なぜなら、言葉は、それを作る人間に対する事物の関係を表示しているだけであって、しかもその関係を表現するのに、きわめて大胆な隠喩が、つまり 「跳び越し」が、援用されている。すなわち、一つの神経の刺激がまず形象に移される場合に、第一の隠喩が援用される。そして、この形象がさらに音に模造さ れる場合に、第二の隠喩が援用される。
これらの隠喩ではそのたびごとに、全く別種の新しい領域の真只中への、それぞれの領域の完全な跳び越しが、行なわれる。だから、われわれは樹木と か、色彩とか、雪とか、花とかについて語る場合、そうした事物そのものについて何事かを知っていると信じているが、しかしわれわれが所有しているのは、根 源的本質とは徹頭徹尾一致しないところの、事物の隠喩以外の何ものでもない。
一枚の木の葉が他の一枚の木の葉と全く同じといったことは断じてない、ということは確実である。同様に確実なことだが、木の葉という概念は、こうした個別的な諸角の差異を任意に棄て去ることによって、つまり相異点を忘却することによって、形成されたものである。
すなわち彼は、絶対に個別的な事例という点からすれば、概念はその絶対的な個別性を、他との絶対的な相異を、棄却してしまっているとする。しか し、それだけではない。いったん「木の葉」という概念が形成されると、この概念は、自然の中にはさまざまな木の葉のほかに、まさに「木の葉」そのものとで も言えるようなものが、つまり例えば一つの原型が、存在しているかのような考えを呼びさます。
そしてすべての木の葉が、この原型に則って織られ、描かれ、測られ、彩色され、縮らされ、塗られるが、しかし下手な手でそれがなされる結果、どの一葉の見本も、原型の忠実な描写としては正確ではないし、信頼するに耐えないものに終っている、といったように見なされる。
すなわち彼によれば、概念が形成されることによって、すべての絶対に個別的な事例に対して一つの原型が、一つの原因が、存在しているかのような考えを呼び さます。がまさに存在していると前提されるこの原型、概念こそ、すべての絶対に個別的な事例の捨象であって、抽象にすぎない。
「個別的な現実的なものを看過することによって、われわれに概念が、それにまた形式が、与えられる。これに対して自然は、いかなる形式も、いかな る概念も、それゆえまたいかなる種属も、知らない。自然が知っているのは、ただ、われわれにとっては近づき難い定義しえないXだけである。」
われわれが知っているのは、多数の個別化された諸行動、したがって等しからざる諸行動のみである。しかしわれわれは、その等しからざるものを棄却 することによって等置し、ある人間を誠実だと言ったりする。しかもさらに、その人間が今日あのように誠実に振舞ったのは、彼の誠実さのためだ、と言ったり する。
これはしかしまたしても、「木の葉」そのものがさまざまな木の葉の原因である、というのと同じである。われわれは、誠実さと呼ばれるような本質的 な一性質については、全く何も知らない。われわれが知っているのは、多数の個別化された諸行動でしかないのに、それらから一つの「隠れた特性」を定式化し て、それに「誠実さ」という名称を付与し、しかもこの誠実さの原型こそが存在して原因となっている、といったように考えられる。
このようにニーチェは概念の形成に関して述べ、それと関連してとくに、概念における絶対的な個別性の棄却、また、概念で固定されたそのもの自体とでも言えるものの存在や原因の想定、に触れている。
「真理とは、隠喩、換喩、擬人観の動的な一群である。要するに、人間的諸関係の総和である。それが、詩的にかつ修辞的に高められ、転用され、修飾され、そ して長く使われたのちに、ある民族にとって確固たるもの、規準的なしの、拘束力のあるもの、と思われるようになったものである。すなわち、真理とは錯覚で ある。
ただそれは、錯覚であることが忘れられてしまった錯覚である。真理とは隠喩である。ただそれは、使い古されて、感覚的に無力になってしまった隠喩 である。真理とは貨幣である。ただそれは、その肖像が消えてしまって、いまや金属であってもはや貨幣ではないと見なされるようになった貨幣である。」
このように、隠喩である直観、さらにそれが昇華された隠喩である概念、これらのうえに成立して「真理」と称されているものは、それ自体が隠喩にす ぎない、とされる。あるいは換言すれば、錯覚であるとされる。ニーチェはもはや、真理と錯覚との間に、つまり真理と虚偽との間に、区別を設けない。
直観が、概念が、事物の隠喩であって、事物そのものに、事物の本質に、由来しているわけではない。それらが、事物の本質に対応していない、と言う のではない。もしそう言うとすれば、その主張は、独断的な主張であって、反対の「対応している」という主張と同様に、証明不可能だろう。正しい知覚が成立 している、つまり、客観が主観において適切な表現を得ている、ということがそもそも矛盾だらけのナンセンスである。
「なぜなら、主観と客観との間というような二つの絶対に相異なる領域の間には、いかなる因果性も、いかなる正しさも、いかなる表現もありはせず、 せいぜい、美的な関係があるにすぎない。という意味は、全く異質な言葉への暗示的な転移が、吃りながらの翻訳が、あるにすぎない。しかし、それをなすため にもいずれにせよ、自由に詩作し自由に虚構をなす中間領域と媒体力とを、必要とする。」
認識における事物の本質との対応、主観における客観との対応、といったことは否定される。直観による形象の形成が芸術的な隠喩の形成であり、そも そも人間の主観が芸術的に創造する主観である、というだけではない。主観と客観との間の対応、といったことは独断的な主張であり、仮定にすぎないのであっ て、その両者の間には美的な関係があるにすぎない、とされる。
ニーチェからすれば、自然法則の認識にしてからが、直観的「隠喩を土台にした、時間や空間や数の諸関係の模倣」にほかならない。どうしてカントのように、現象についてして唯一の絶対的な不変の学的認識が成立している、などという信仰が必要なのか。
結局のところ自然法則の認識にしても、生の保存に起因し、生の保持に快適な諸結果を生むように固定された因襲、偽装された慣習、そうしたものとしての隠喩、錯覚、虚偽、ということになろう。
ニーチェは以上のように、認識の「遠近法」という言葉はいまだ用いていないにしても、すでに、あらゆる真理を相対化し、真理と虚偽との間に区別を設けず、すべてのものが偽装であり、隠喩であり、錯覚であり、虚偽である、という見解に達している。
こうして彼はすでに、真偽の彼岸に立っている。唯一の絶対的な不変の認識、といったものは否定される。それは、そうしたものとして凝結ざれ固定された虚偽にほかならないもので
あることが、暴かれる。
ニーチェは、ゲーテの生と芸術とが示したような成熟を拒まれた人間、円熟を拒まれた人
間で、ある意味でその思想は初期においてほとんど出揃っていた、とする見方があるが、確かに、これまで検討してきた彼の思索についても、そのことが言える。
これまで見てきた真理についてのニーチェの見解は、権威あるものと見なされてきた真理の価値を、引きずり落す。真理の不動性、不変性に対して動揺を与え、われわれの認識が生のそのつどの立場との関係のものである、という見解に導く。
カントにおいて不変不動の認識と見なされたユークリッド幾何学とニュートン物理学はともに、その後ある意味で克服されざるをえなかった。認識の問題についてのそうした経緯の背後では、たとえ間接的であったにしても、このニーチェ的見解の出現も一つの意義をもつと言える。
ただしかし彼はいまの場合、知性の本質を、認識の本質を、生の保存という根源から解釈する。そしてその結果、真理とは偽装された慣習である、確固とした因襲であるといったように、道徳の成立についてと同一に近い解釈が、真理についても見うけられる。
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