よく、西洋は直線思想、東洋は円環思想などといいますが、正確には、古代ギリシャや古代インドは円環思想であり、ユダヤ・キリスト教的な考えが直線思想ですね!(ご参考)
この色の知覚は、両極は相通じるを見事に象徴していると思います、今まで気が付きませんでした!
それから、紫ですが、どこの国でも高貴な色として扱われているようです。
「感性の起源」P21 紫はどこの国でも高貴な色として扱われてきた。聖徳太子の簡易十二階の制度で、紫は最高位となっている。十二階位は色で区 別され、紫、青、赤、黄、白、黒の六色で各色に二段階の濃淡があり、計十二色とされた。紫の染料は、紫草の根(紫根)から作られた。当時、紫草は日本に自 生していたとはいえ、その根は染料のみならず生薬として使われ貴重なものであった。
まあ、さらに時代をさかのぼった地中海では、巻貝の一種、ムレックス貝が紫色の染料を作るのに利用されていた。貝の乳白色の分泌液は日光と空気に 触れることで紫色に変わるという不思議な性質をもつ。古代ローマでは、あのカエサルが紫を皇帝と貴族の一部に許される最高位の色と制定した。一グラムの貝 紫を得るのに、数千個もの貝が必要であった。そのため、この貴重な紫は皇帝紫といわれていた。
遠くアンデスの地に栄えたプレ・インカ文明、ペルー南部のナスカ文明でも貝紫を用いた染料が使われていた。この伝統は現在もメキシコやペルーの地 で細々と生き続けている。何ゆえに人は紫に魅せられるのであろうか。紫は可視光の中でもっとも波長の短い領域の色である。物理的には紫はエネルギーの強い 色である。その強いエネルギーが私たちの目を、そして脳を刺激するからだ、というのは的外れな考えであろうか。
それから、五感についての西洋の哲学者の考え方が面白い!
「感性の起源」P25 アリストテレスは、視覚は純粋さにおいて触覚に勝り、聴覚と嗅覚は味覚に勝っていると、視覚優位性を説いた。特に味覚と嗅覚が快楽と結びつきやすいことを指摘し、人間は抑制を失い、節度を失う恐れがあるとして獣的な感覚として低い評価を与えた。
キリスト教においても、同様に肉体と精神の対立が重視され、肉体的なものは快楽と結びつくものとして否定された。味覚は、食欲そして食に伴う快楽と密接に関係があるため、低く見たのである。逆に視覚はそうした結びつきが低く、高度な感覚と位置づけられていた。
デカルト(1596-1650)は「精神=魂」と「物質=肉体」を二つの異なる実体として区別した。有名な精神と物質の二元論である。そういった なかで、『光論』において、視覚を最も優れた感覚とし、やはり味覚を低いものとした。さらに、味覚を研究の対象とはしなかった。なぜだろうか。
これは、筑波大学の増成隆士教授らが議論しているように、「見る」という行為が対象に影響を与えないからである。ここに客観性が成立する。リンゴを見ただけではリンゴがどうなるというわけではないのである。(中略)
P26 つまり、視覚においては、見るという操作は、距離を置いて対象を捉えることができるという意味で自己の安全性が高いのである。味わう、嗅ぐ、触るは「見る」に比べ、危険性が高く、互いに無関係ではおられず、客観的操作を不可能とする。
特に、「味わう」--これはいかにも主観的、感性的な言葉である。じっくりと味わう、それはまさしく対象を体内に入れてゆっくりと消化することである。好き嫌いも含めて対象を理解し尽くすのである。他方、「見る」「見抜く」はクールな客観的行動を想起させる。
視覚では対象に直接関わらないからこそ、ことの真相が分かるともいえる。これが認識論の基礎である。他方、味覚と嗅覚の二つの感覚では、対象を体 に取り込まざるを得ない。これはとりもなおさず、快・不快と結びつきやすいことにつながる。西洋哲学は、このような快・不快を排除した「見る」という操作 に端を発する。
先に感性は、主として視覚情報に関連しているといった。これは私たち高等生物が進化の過程で視覚を発達させたからに他ならない。視覚情報は大脳新 皮質で処理され、その後、好き嫌いの判断を下す古い脳である扁桃体に送られる。他方、味覚や嗅覚では、比較的早い段階で扁桃体において情報が処理される。
味覚と嗅覚は、対象を体内に取り込む、古い脳で処理される、という二つの意味において、他の感覚とかなり異なっている。この事実はもちろん、味覚と嗅覚が化学感覚で、視覚や聴覚が物理感覚であるということと関係している。
(はてぶ/色彩論)http://
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