2012年5月19日土曜日

意志と表象としての世界

『図解!ニーチェの考え方』を買った記念。遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2009.11.26コピペ。

認識について、感覚と理性という対立軸がある。それについては今朝方つぶやいたものを下記にコピーした。それとは別に、意欲・意志と表象・認識という対立 軸がある。ライプニッツ・カント・ショーペンハウアー・ニーチェの系譜がそれである。以下、『反哲学入門』P173より部分的に抜き書く。
カントは、現象界の因果関係に拘束されず物自体の世界で自由に行為することのできる「意志」と、その現象界に関わる「表象」という理性の二つの能力を、ライプニッツが「単子」の二つの根本特性と見た「意欲」と「表象」から受け継ぐ。

「意欲・意志」の方が、「表象・認識」の能力よりも根源的なものだと見られている。

「意志」「意欲」はむしろ「生命衝動」とでも言った方がいい。弱肉強食の世界でただ生きようとする、どこに行くのかまったく分からない無方向な生命衝動のようなものが考えられている。
---認識について今朝方つぶやいたこと--

プラトンは、物質世界は「常に成るもの(生成・消滅するもの)であって、在るもの(実在するもの)ではない」ゆえに、物質世界には背を向けて、「常に在るものであって、決して生成・消滅しないもの」を目指すように、と説いている。『数量化革命』P30

言葉は、それが表示する物とは少しも似ていないが、それでも我々にその物を理解させる。・・・自然もまたなんらかの記号を定め、我々に光の感覚を 持たせることが-この記号はその感覚に似たものをなにもその内に持っていないとしても-どうしてできないであろうか。デカルト『世界論』

存在といっても、変わってゆく「成る存在」と変わらない「在る存在」があるのだなー。

言葉や数式は変わらない存在を記述するのに適している。変わらない存在(単語や法則)を繰り返すことにより変わってゆく存在を記述することができる。

哲学の言葉に、現実存在(実存)と本質存在という言葉があるが、実存と物質世界(成る世界)、本質と精神世界(在る世界)が対応しているように思われる。訂正→実存と成る世界=感覚=主観、本質と在る世界=理性=客観が対応しているように思われる。

パターン認識は感覚!?理性!?この二つの間には中間色があるのだろう。

たとえば、文字の認識。人が書く文字は同じ文字でも一人ひとり違う。違うと認識するのは感覚。というのは了解できる。でも、同じと認識するのは何 なのでしょうか!?感覚が抽象化(汎化)されているには違いないのだが、理性というほどには考えて認識しているわけではないし、、、やはりパターン認識能 力というしかないか。

さまざまな出来事から法則を見つけ出すようなもっと高度なパターン認識なら、理性(といっても感覚を通して)の働きといえるのかも。

関連 追記2012.05.19/23:53
・アートマン思想(スピリチュアリズム)を否定したのが釈迦。「超天才Dr.苫米地のスピリチュアルのウラ」4/6
http://www.youtube.com/watch?v=s0R3OYqIrII&feature=channel&list=UL#t=6m12s
・釈迦の「毒矢のたとえ」、存在の三視点「空観・中観・仮観」「超天才Dr.苫米地のスピリチュアルのウラ」5/6
http://www.youtube.com/watch?v=ZuWERqgJ2xQ&feature=channel&list=UL#t=5m

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