2012年5月20日日曜日

ヒトはなぜことばを使えるか

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2006.07.19コピペ。

「ヒトはなぜことばを使えるか」という本を読んだ。半分は読み飛ばした。というのは、例えば、

P124 動詞を想起しているときは言語優位半球中側頭回の後方が賦活された。色名を答えているとき賦活された領域は、後頭葉視覚領域の中で色の知覚に関与しているとされる領域の直前方(ブロードマンの37野)であり、・・・

てな具合で、専門的記述に降参!!それから「なぜ」というより「いかに」の説明が長すぎたのも一因だな!?「いかに」がなければ「なぜ」もわから ないのだが、まあ、今日は根性が無かったのでしょう、、、(あ、第一章「ことばとはなんだろう」は、音韻の話しとか、それなりに面白いです)

が、第四章(脳・心・ことば)「心の出現と創発について」が面白い。「科学における心」(グレゴリー)を引用しての「創発現象を説明する三つの立 場」についての記述はお宝物。考え方とその動向について、このような分り易い解説は、そうざらにはないですよ。頭が整理されたようでスッキリしました。

以下抜粋。

第一の立場、創発される性質(時計なら、時を刻むという働き)が、部品の一つ一つに潜んでおり、部品がまとまると、その性質が顕在化すると考え る。時計の部品の一つ一つに「時計性」があって、「時計性」が集まると時計になる。この考えを脳にあてはめると、脳を構成する素材にはすべて「心性」が備 わっていて、集まって脳になると、心が現れるということになる。

第二の立場は、創発する性質は機能水準ごとに備わっていると考える。この考えをつきつめると、高い水準の性質は高い機能ににしか現れないから、低 い機能水準が創発する性質から一段高い機能水準が創発する現象を記述することは、不可能だということになる。逆に言うと、高い水準の特性は、低い水準へ還 元しようのないものである。

ここから先が面白いのだが、彼はこの第二の考えをさらに二つに分類している。

一つは、彼が悲観的創発論と呼ぶもので、ある機能水準以上の複雑な創発現象は原理的に永久に説明不可能だ、と考える。この立場に立つと、心は永久に神秘のベールを脱ぐことはないということになる。

もう一つは、彼が楽観的創発論と呼ぶもので、この機能水準の差は絶対的なものでなく、今は理解が困難でもいつかは克服できるものと考える。この考 えによれば、脳の生理学的な機能はいつかは解明され、その機能が解明されれば、さらに一段高い水準の心理現象も解明されるときがくるであろう、という楽観 的な展望がもたらされる。心も生理学で記述できるはずなのである。このとき心理学はお払い箱になってしまう。

第三の立場は、創発特性は部分には所有されていず、機能水準ごとに所有されているものでもない。完全な構造が持つ特性であると考えるものである。この場合、界面性(インターフェイス性)が重要なキーワードになる。

部分は単に部分だが、部分がお互いに界面性を持って全体を作るとき、つまり、部分がお互いに働きあう機能によって組み合わされたとき、全体の特性 が出現する。時計が完全に組み立てられていない場合、部品は単なる素材に過ぎない。部品の界面性によってお互いが結びつけられていないからである。

(中略)

グレゴリーはおおよそ以上のようなことを述べ、第三の考え方の重要性を強調している。この見事な解説に対する筆者の感想は、全体は部分からは見えないが、部分なしでもやはり全体は見えない、というしごくもっともな現象学的事実である。

第一の考え方はアニミズムに近い。万物すべてこれ仏性、という仏教の考えもこれであろう。第二の考えのうち、悲観的創発論は脳の研究者には案外多い。この人たちは、結局、心なんか分りっこないよと口には出さないが、密かに思っている。

楽観的創発論はいま盛りである。コンピューターサイエンスをやる人たちは、脳の仕組みを究めれば心も分るはずだ、と固く信じている。

筆者は第三の考え方を支持する。脳の一つ一つの機能は、それぞれの界面性が対応する機能と結合することで、一つ上の水準の性質を発現し、その水準 の機能がお互いに結びつくことでさらにもう一つ上の水準の性質を発現する、というかたちで機能の階層を上昇して行くものであろう。

心も、ある一つの生理機能水準から、いきなり創発するのではなく、低い段階の働きから、高い段階の働きへと、創発を重ねて生成される。まず、覚醒 意識が現れ、意識から感情が現れ、感情から表象性の性質が現れ、表象性の性質から意図が現れ、という風に、少しずつ水準を上げることで、そのたびに違う性 質を創発してきたのではなかろうか。

まあ、第一は魅力的だけど論外。第二の楽観論なしには、第三の道も開けないとは思います。清水 博「生命を捉えなおす」も、第三の考え方だったと思う。こちらは、生命についてです。

あと、

「大脳両半球にいわばスイッチが入れられた状態になり、心に覚醒意識という明かりが点灯する。この明かりによって、情ー>知ー>意が動き始める」

という記述があって、意識を明かりに喩えるのは、常識みたいですね!

キーワード:自然の階梯(アリストテレス)

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