「ユーモア学入門」より 要約、抜粋
要するに苦境は超越者に頼るのではなく笑い飛ばせということ。笑いとしての宗教に仏教がある、とりわけ禅宗(註1)がそうなのだそうだ。ええぇーーっ!!!
P193 ノモス型人間は宗教へ向かい、カオス型人間はユーモアで対処する。
中世キリスト教と笑いが一つの主題である小説『薔薇の名前』の著者U・エーコは、「笑いは恐れをなくさせ、ついには人間は神をも笑うようになるから」と、中世のキリスト教が笑いを厳禁した理由をこう指摘している。
クソ真面目系ノモス人間は、信仰という牢獄に閉じ込められた魂の囚人になりやすい。
宗教的信念のエッセンス部分は神議論とよばれる。神議論とは、世俗的な論理からはどうしても納得のゆかない人間と世界の不条理を「神」という観点から説明する論理だ。
たとえば「努力すれば報われる、だから努力しなさい」というのが世俗の論理だが、残念ながら人生や世の中は運命の皮肉や偶然のいたずらがやたら多くあって、必ずしも報われない。
そういった不条理な目に遭っている人たちに、「神」の論理という世俗を超えた図式で説得するのが神議論なのだ。
もともと運命の偶然としかいいようのないものにもっともらしい「意味」をあたえることで、人を安心させ(これを「魂の救済」という)、献身(+献金?)を引き出すのが神議論。
これに対して、世俗の論理(図式)と現実とのズレを愉快と感じるのはカオス型人間、不条理に翻弄される自分を笑い飛ばしてしまうのだ。真面目な自分、苦悩する自分を笑い飛ばすのだ。
その究極に、ニーチェ(註2)の言う運命愛が姿をあらわすのだ。運命の過酷さに見舞われるたびに、「まいったかって?いやまだまだ、いや何度でもかかって来い!おれはおまえを愛する」と叫ぶ雄渾な精神である。
歴史上最も宗教を毛嫌いし、歴史上最も深く笑いを愛したニーチェはこう主張する。
笑いとは、地上で最も深く苦悩する動物が自分のために見出した生に耐え抜くための手段であって、だから人間は笑うこと、自分自身を超えて笑うことを学ばなければならない、と。
ユーモアとは、もう一つの宗教なのだ、そして、実は、仏教がその一つなのだ。
ああ、だから寒山拾得なのね!
自分は、本当に苦しい時笑えるだろうか!?
註1
禅がめざす悟りの境地を描く禅機画のモチーフとして、最もよく登場するのが「寒山と拾得」だが、彼らはたいてい笑っている姿で描かれ、おなじく「羅漢」や「七福神」も多くは笑っている。まさしく、悟りとは笑うことなのである。
註2
『ツァラトゥストラはかく語りき』では、タイトルが仏教の「如是我聞」、主人公ツァラトゥストラはゾロアスター教の創始者、作品全体が『新約聖書』のパロディ。
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