2012年5月27日日曜日

言語とは何か。それは、音で表わされた神経の刺激の複写である

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2010.07.10コピペ。

(1)(2009.11.28)真理とは、それが錯覚であることを忘却されてしまった錯覚である
とニ-チェは言う。しかし、その神経の刺激から発して、われわれ人間の外にある或る何らかの原因へと推論を進めるのは、すでに根拠の原理の誤った不当な適用の結果である。言葉は決して、人間の外の或る何らかの原因そのままの妥当な表現などではない

なぜなら、言葉は、それを作る人間に対する事物の関係を表示しているだけであって、しかもその関係を表現するのに、きわめて大胆な隠喩が、つまり「跳び越し」が、援用されている。すなわち、一つの神経の刺激がまず形象に移される場合に、第一の隠喩が援用される。そして、この形象がさらに音に模造される場合に、第二の隠喩が援用される。

これらの隠喩ではそのたびごとに、全く別種の新しい領域の真只中への、それぞれの領域の完全な跳び越しが、行なわれる。だから、われわれは樹木とか、色彩とか、雪とか、花とかについて語る場合、そうした事物そのものについて何事かを知っていると信じているが、しかしわれわれが所有しているのは、根源的本質とは徹頭徹尾一致しないところの、事物の隠喩以外の何ものでもない

(2)ディーツゲンは『人間の頭脳活動の本質』(小松攝郎訳・岩波文庫、1952 年)
我々は事物を見うるであろうか。否、我々は眼へ及ぼす事物の影響を見るだけである。我々は酢を味うのでなく酢の我々の舌に対する関係を味うのである。その結果が酸っぱいという感覚である。酢は舌に対してのみ酸っぱい感じを与え、鉄に対してはそれを溶かし、寒さに対しては固まり、熱に対しては流動体となる。そのように酢は、それが空間的・時間的に関係する客体が異るのに応じて、種々の作用をする。例外なしにすべての事物がそうであるように、酢は現象する。しかし、決して酢自体だけで現れるものではなく、常に他の諸現象と関係し、接触し、結合してのみ現れる。

視覚が樹木を見るのでなく、樹木の見える所だけを見るように、思惟能力もまた客体そのものをでなく、客体の認識されうる精神的側面を受け入れるだけである()。 その結果として生まれる思想は、脳髄がある客体と結合して産んだ子供である。思想には一方における主観的思惟能力と他方における客体の精神的性質とが現れ る。すべての精神作用はある対象を前提とし、その対象が外に存在し、何らかの方法で感覚的に知覚され、或は見られ、聞かれ、嗅がれ、味われ、或は触れら れ、要するに経験される一つの対象から生ずるものである。(p.32~33)
(3) 『差異と反復』P20
頭脳は交換の器官であるが、心は、反復を愛する器官である。(たしかに、反復は頭脳にも関 わっている。しかし、それはまさに、反復が頭脳にとって恐怖でありパラドックスであるからだ。)ピユス・セルヴィアンは、正当にも二つの言語を区別した。 ひとつは、諸科学の言語であって、等号に支配され、どの項(辞項)も他の項によって代理されうるものである。他は、抒情的な言語であって、どの項も代理さ れえず、ただ反復されることによってしか可能でないものである。
(4) Twitter / 宮台真司: なぜ村上春樹がスパゲッティがどうたらストッキングがこ ...
なぜ村上春樹がスパゲッティがどうたらストッキングがこうたらミニマルな自己関与モチーフを反復するのか。答えは〈世界〉と〈世界体験〉の差異化のためです。
現象学(フッサール)と関係論・構造主義(ソシュール)は、 虫の目(ミクロ)と鳥の目(マクロ)と視点の違いはあれど、相対論として近親性がある。まるで兄弟のよう。

(5) 虫(むし)の目 鳥(とり)の目 魚(さかな)の目
「虫の目」は近いところで、複眼をつかって様々な角度から注意深く見る目のこと。「鳥の目」は虫では見えない広い範囲を、高いところから俯瞰(ふかん)する目のこと。そして「魚の目」とは水の流れや潮の満ち干を、つまり世の中の流れを敏感に感じる目のことです。


1主観認識(世界体験)              虫の目
2客観認識(世界)                 鳥の目
3行動(世界への働きかけ)           魚の目

とみることもできる?!

(注)太字は、ghotiによる

2012年5月26日土曜日

立ち去ろうとしない過去

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2010.01.08コピペ。

(1)時間は待つと長いが追われると短い。
(2)嫌な時間は長いが楽しい時間は短い。
(3)子供の時間は長いが大人の時間は短い(ジャネーの法則)。

このごろ時間があっという間に過ぎる。もう朝か、また飯か、てな感じだ。

時間に対する意識。
 速く過ぎて欲しいと思うときはゆっくり進み(退屈な話、待ち時間)
 ゆっくり過ぎて欲しいときは速く進む(楽しい時間)
過ごし方による違い。
 新鮮かマンネリか
 濃密か希薄か

http://jvsc.jst.go.jp/being/seibutsujikan/002/2-3in.html

時間の感覚は変化量と変化率で測れる。前者の表現は長い短い、後者の表現は速い(早い)遅いである。

円環的感覚 またやってくる感覚
直線的感覚 もうやってこない感覚

ニーチェには『悦ばしき知識』(1882~1887)という著作がある。哲学や芸術は苦悩する人間を描くことで生命の成長やその闘争力を高めると いう主旨なのだが、そこでニーチェは苦悩には2種類があると見た。健康で満ち溢れた者がその力を放出できずにもてあましている苦悩と、疲れて不健康とな り、自分からも逃れたがっている者の苦悩である。ロマン主義的な苦悩はおおむね後者にある。
 ニーチェはこのことから、ロマン主義者が永遠や静寂や神を求めるのは、自身の苦悩や欠陥を世界の本質に由来するものとみなして(つまりは責任逃れをして)、それによって世界との逢着を錯覚するような慰みを得るためなのではないかと考えた。https://1000ya.isis.ne.jp/1023.html

初めに言葉があったのであろうか。いや、ゲーテが見たように、初めに行為があったのだ。
http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/04/blog-post_28.html

エントロピー増大の法則(熱力学第二法則)について、思い出したこと

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2010.07.09コピペ。

エントロピー増大の法則。放って置くとバラバラになってしまうという自然の掟。構成要素が相互作用しない系に適用される。要素が相互作用する系では、要素間の力(内部エネルギー)とエントロピーの兼ね合いで、系の状態が決まる。パワー、セックス、自殺 (2)
先日、苫米地さんと藤末さんの対談で、哲学や空の話(50分辺りから)が出てくるが、

宇宙=物理空間(エントロピー増大)+情報空間(エントロピー減少)

というお話をされていた。

情報空間は、抽象度がどんどん上がっていく、行きつく先が、「空」である。
空と色と無
T:だから実は宇宙の、。
色即是空空即是色は間違ってるっていうの
いろんなとこで言ってるんだけど、
ていうのは、色即是空ってことは色って物質のことだよね?
物質は空である空は物質つであるっていうと
空を下に下げちゃうじゃん。
F:うん
T:空は上だから。空包摂色空包摂無だったらいいわけ。
だから色即じゃないのよ、色即是無、無即是色、空包摂色空包摂無が正しい
ということなのですが、情報空間が説明なしに自明のこととして語られていた。関心の在りかが、そこではないので、自明のこととして、語られたわけだが、

私は、情報空間がどのようにして物理空間から生まれるのか、そこに関心があったので、この対談を聴いて、対談の主旨とは別に、あることを思い出してしまった。

私が思い出したのは、『感性の起源』で、物理空間の中に、エントロピーが増大する系と減少する系が存在するということ。すなわち、構成要素が相互作用しない系は、エントロピーが増大し、構成要素が相互作用する系は、エントロピーが減少する。(参照

で、エントロピーが減少する系とは、何かというと、自己組織化現象、すなわち生命のことである。生命がさらに抽象化(脳の神経細胞の相互作用による)されると、意識が生まれる。

この意識こそ、情報空間である。

ということで、物理空間からいかにして情報空間が生まれるか、(物理的)構成要素の相互作用によって、情報空間が生まれる、という話、でした。

対談は、これはこれで、刺激に飛んだ話がいっぱいあって、楽しかった。何度も聴きたい対談である。

包摂半順序、空と色と無に関連して、思い出したニーチェの言葉

一枚の木の葉が他の一枚の木の葉と全く同じといったことは断じてない、ということは確実である。同様に確実なことだが、木の葉という概念は、こうした個別的な諸角の差異を任意に棄て去ることによって、つまり相異点を忘却することによって、形成されたものである。

パワー、セックス、自殺 (2)

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2009.01.29コピペ。

エントロピー増大の法則というのがある。放って置くとバラバラになってしまうという自然の掟。覆水盆に返らずの世界だ。構成要素が相互作用しない系に適用される。要素が相互作用する系では、要素間の力(内部エネルギー)とエントロピーの兼ね合いで、系の状態が決まる。(ref.→『感性の起源』P65)

人間の構成要素は細胞である。人間の生は細胞間の円滑なコミュニケーションによって支えられている。

http://
www.tousa-nu.com/contents/tousa/frame.htm

病気とは細胞たちのディスコミュニケーション。いくつの言語があるのか知らないが、糖鎖という言語は重要らしい。ポイントは(遺伝子によって決ま る)タンパク質を修飾する糖鎖はタンパク質の形によって決まり、遺伝子によって書かれていないということ。当然、それによるコミュニケーションも遺伝子に は書かれていない。規定はされるが決定はされない。人間の会話と一緒だな!


「糖鎖の不思議な点は、遺伝子情報の地図をもとにつくられた、タンパク質が合成されたあとに付加される点です。ゲノムの情報をこえた、不思議な情 報がかくされているのです」と語る。もちろん、糖鎖を付加したりとったりするはたらきをもつ酵素はタンパク質であるので、遺伝子の情報にもとづいている。 しかし、その酵素がどこでどのタンパク質に糖を修飾するのかは、なぞである。



特定の遺伝子によって、決められた細胞に糖が付加される例もある。私たちのABO式血液型は、特定の酵素の存在が直接、どの血液型になるかに結び ついている。ヒトの血液型の基本型はO型である。O型の糖鎖をつくる酵素はすべてのヒトがもっている。それに加えてA型、B型のヒトは、それぞれA酵素、 B酵素をもつ。A酵素、B酵素は、それぞれ別の種類の糖を糖鎖に追加する。
AB型は、両方の酵素をもっているため、A型の糖鎖とB型の糖鎖の両方をともにもつ状態になる。このように、ABO式血液型は、特定の遺伝子から合成される酵素が、決められた部分の糖鎖を決定することが、はっきりと明らかになっている例だ。


血液型の違いって、糖鎖の違いだったんだね!

ということは、神経細胞の会話の内容も糖鎖によって違ってくる、すなわち血液型によって違う!?


* 血液型と性格について否定する一部の研究者に、脳に血液型物質が存在しないと主張する人がいるが、それは全くのウソである。血液型物質は、たまたま血液中から発見されたので「血液型」と名前が付いたが、脳も含めて体中に存在している。
* ABO 式血液型物質は、遺伝子の解析による研究によれば、人類がまだ中央アフリカにいる10万年前ぐらいにA型からB型が発生した。ヒトとゴリラやチンパンジー などの類人猿は同じ血液型物質を持っている場合もあるが、それらは遺伝子的にはおのおの別に発生したものである。従って、ヒトのABO式血液型は10万年 前ぐらいに発生したと言ってよい。

(中略)

さて、ここで、この受容体には「脱感作」という状態がある、ということなのです。神経伝達物質がずっと存在していると、つまり刺激が長く続くと、 受容体に神経伝達物質が結合しているのにチャンネルが開かない、つまり刺激に反応しなくなっちゃう状態です。むちゃくちゃ興奮し続ける危険性を回避してい るわけですね。

さてさて、能見さんの本に出てくる、血液型別興奮曲線ですが、この脱感作となんらかの関係があると思われませんか?

* O型は、一度興奮しだすと(あがったりすると)収まらない。
* A型は、普段はO型ほど安定しているわけでもないが、興奮の後、開き直って安定する。
* B型は、喜怒哀楽も激しい方であるが、AやOのような興奮状態がない。
* AB型については、能見さんは2つの波を重ねてかいていますが、B型同様、AやOのような興奮まではいかない? 突発的感情変化、というのはよくいわれますが。
http://
www010.
upp.so-net.ne.jp/abofan/tousa.htm

真理とは、それが錯覚であることを忘却されてしまった錯覚である

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2009.11.28コピペ。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」みたいに冬の夜空に熊を見てしまう能力が真理を希求する。昨日からずっと気になっているデカルトの言ったこ と、

言葉は、それが表示する物とは少しも似ていないが、それでも我々にその物を理解させる。・・・自然もまたなんらかの記号を定め、我々に光の感覚を 持たせることが-この記号はその感覚に似たものをなにもその内に持っていないとしても-どうしてできないであろうか。デカルト『世界論』

これは人間の比喩によって理解する能力(ソレはアレと同じ)に通じる。ニーチェが言ったことと重なる。

すべては比喩(錯覚)なんだ。(ソレとアレの間には何ら必然的因果関係はないのに)ソレをアレとして見る。知らないことは自分の知っていることに置き換えて理解する。比喩能力は抽象化能力にもパターン認識能力にもつながる。これらの能力は個体維持に役に立っている。

と同時に、殺風景な世界(混沌)に彩り(秩序、すなわち「真理」と「虚偽」あるいは「善」と「悪」とか)を添えて味わい深いものにしている。

(メモ)
ニーチェの小論文『道徳以外の意味における真理と虚偽について』について考察した小論文を部分転写
http://rose.lib.hosei.ac.jp/dspace/bitstream/10114/2561/1/kyoyo_86_ikeda.pdf

プラトンでは、現実の感覚的世界を超えたところに、超感覚的なイデアの世界が構想された。しかも、この超感覚的なイデアの世界こそが真なる存在の世界であり、感覚的な生成と変化の世界は虚偽の世界、見せかけの世界である、とされた。

ニーチェはこのように、現象の背後にある不変不動の実体的世界こそが真実の存在で、しかも理性による知の対象であり、感覚的な生成し変化する現象の世界は虚偽の世界である、とみなす思惟の形態を形而上学とする。

しかも西欧の思惟において、このような形而上学的実体論が、キリスト教と結びついた。神的なものが超感覚的彼岸であり、この世は感覚的仮象の此岸であるとされ、真の世界である彼岸と虚偽の世界である此岸とが、対立された。

こうした思惟の形態は、それまで彼岸に、神的なものに向けられていた誠実さが、此岸に、自然と人間そのものに向けられるようになったとき、捨てられたはずだった。しかし、近代的思惟のうちにも世俗化された形でそのように二つの世界を対立させる形而上学的思惟が残った。

理想、良心、理性、最大多数の最大幸福、等々。これら完全には到達しえない範型が定立されて、真実のものとされ、これらの範型に対して真ではない現実が、否定的なものとして扱われる。現実が依然として否定的な真ではない世界とされ、真実の世界と対立される。

プラトン主義的キリスト教が、形而上学的思惟が、いまだに「巨大なぞっとするような影」をとどめている。》そこでこうしたプラトン主義が、逆転さ れなくてはならない。形而上学的思惟が否定され、克服されなくてはならない。これが「神は死んだ」ということであり、同時にこれは、形而上学的思惟の拒否 を意味する。

同時にこれはまた、価値ありとされていたものが、すべて無価値・無意味となることを意味する。これまで価値ありとされていたものの虚偽性が暴露さ れ、すべての至高の価値が価値を喪失すること、すなわちニヒリズムを意味する。いまや結局、すべての価値は無によってしか支えられていないことが、明らか となる。

すべてのものが支えがなく、無の中に投げ出されている。この無を埋めることはできない。すなわち、形而上学的思惟に立ち戻り、超感覚的世界を外に 立て、それによって支えることは、もはやできない。もはや何の支えもなく、無によってしか支えられていないことを、われわれは受けとめなくてはならない。

『道徳以外の意味における真理と虚偽について』

言語とは何か。それは、音で表わされた神経の刺激の複写である、とニ-チェは言う。しかし、その神経の刺激から発して、われわれ人間の外にある或 る何らかの原因へと推論を進めるのは、すでに根拠の原理の誤った不当な適用の結果である。言葉は決して、人間の外の或る何らかの原因そのままの妥当な表現 などではない。

なぜなら、言葉は、それを作る人間に対する事物の関係を表示しているだけであって、しかもその関係を表現するのに、きわめて大胆な隠喩が、つまり 「跳び越し」が、援用されている。すなわち、一つの神経の刺激がまず形象に移される場合に、第一の隠喩が援用される。そして、この形象がさらに音に模造さ れる場合に、第二の隠喩が援用される。

これらの隠喩ではそのたびごとに、全く別種の新しい領域の真只中への、それぞれの領域の完全な跳び越しが、行なわれる。だから、われわれは樹木と か、色彩とか、雪とか、花とかについて語る場合、そうした事物そのものについて何事かを知っていると信じているが、しかしわれわれが所有しているのは、根 源的本質とは徹頭徹尾一致しないところの、事物の隠喩以外の何ものでもない。


一枚の木の葉が他の一枚の木の葉と全く同じといったことは断じてない、ということは確実である。同様に確実なことだが、木の葉という概念は、こうした個別的な諸角の差異を任意に棄て去ることによって、つまり相異点を忘却することによって、形成されたものである。

すなわち彼は、絶対に個別的な事例という点からすれば、概念はその絶対的な個別性を、他との絶対的な相異を、棄却してしまっているとする。しか し、それだけではない。いったん「木の葉」という概念が形成されると、この概念は、自然の中にはさまざまな木の葉のほかに、まさに「木の葉」そのものとで も言えるようなものが、つまり例えば一つの原型が、存在しているかのような考えを呼びさます。

そしてすべての木の葉が、この原型に則って織られ、描かれ、測られ、彩色され、縮らされ、塗られるが、しかし下手な手でそれがなされる結果、どの一葉の見本も、原型の忠実な描写としては正確ではないし、信頼するに耐えないものに終っている、といったように見なされる。

すなわち彼によれば、概念が形成されることによって、すべての絶対に個別的な事例に対して一つの原型が、一つの原因が、存在しているかのような考えを呼び さます。がまさに存在していると前提されるこの原型、概念こそ、すべての絶対に個別的な事例の捨象であって、抽象にすぎない。

「個別的な現実的なものを看過することによって、われわれに概念が、それにまた形式が、与えられる。これに対して自然は、いかなる形式も、いかな る概念も、それゆえまたいかなる種属も、知らない。自然が知っているのは、ただ、われわれにとっては近づき難い定義しえないXだけである。」

われわれが知っているのは、多数の個別化された諸行動、したがって等しからざる諸行動のみである。しかしわれわれは、その等しからざるものを棄却 することによって等置し、ある人間を誠実だと言ったりする。しかもさらに、その人間が今日あのように誠実に振舞ったのは、彼の誠実さのためだ、と言ったり する。

これはしかしまたしても、「木の葉」そのものがさまざまな木の葉の原因である、というのと同じである。われわれは、誠実さと呼ばれるような本質的 な一性質については、全く何も知らない。われわれが知っているのは、多数の個別化された諸行動でしかないのに、それらから一つの「隠れた特性」を定式化し て、それに「誠実さ」という名称を付与し、しかもこの誠実さの原型こそが存在して原因となっている、といったように考えられる。

このようにニーチェは概念の形成に関して述べ、それと関連してとくに、概念における絶対的な個別性の棄却、また、概念で固定されたそのもの自体とでも言えるものの存在や原因の想定、に触れている。

「真理とは、隠喩、換喩、擬人観の動的な一群である。要するに、人間的諸関係の総和である。それが、詩的にかつ修辞的に高められ、転用され、修飾され、そ して長く使われたのちに、ある民族にとって確固たるもの、規準的なしの、拘束力のあるもの、と思われるようになったものである。すなわち、真理とは錯覚で ある。

ただそれは、錯覚であることが忘れられてしまった錯覚である。真理とは隠喩である。ただそれは、使い古されて、感覚的に無力になってしまった隠喩 である。真理とは貨幣である。ただそれは、その肖像が消えてしまって、いまや金属であってもはや貨幣ではないと見なされるようになった貨幣である。」

このように、隠喩である直観、さらにそれが昇華された隠喩である概念、これらのうえに成立して「真理」と称されているものは、それ自体が隠喩にす ぎない、とされる。あるいは換言すれば、錯覚であるとされる。ニーチェはもはや、真理と錯覚との間に、つまり真理と虚偽との間に、区別を設けない。

直観が、概念が、事物の隠喩であって、事物そのものに、事物の本質に、由来しているわけではない。それらが、事物の本質に対応していない、と言う のではない。もしそう言うとすれば、その主張は、独断的な主張であって、反対の「対応している」という主張と同様に、証明不可能だろう。正しい知覚が成立 している、つまり、客観が主観において適切な表現を得ている、ということがそもそも矛盾だらけのナンセンスである。

「なぜなら、主観と客観との間というような二つの絶対に相異なる領域の間には、いかなる因果性も、いかなる正しさも、いかなる表現もありはせず、 せいぜい、美的な関係があるにすぎない。という意味は、全く異質な言葉への暗示的な転移が、吃りながらの翻訳が、あるにすぎない。しかし、それをなすため にもいずれにせよ、自由に詩作し自由に虚構をなす中間領域と媒体力とを、必要とする。」

認識における事物の本質との対応、主観における客観との対応、といったことは否定される。直観による形象の形成が芸術的な隠喩の形成であり、そも そも人間の主観が芸術的に創造する主観である、というだけではない。主観と客観との間の対応、といったことは独断的な主張であり、仮定にすぎないのであっ て、その両者の間には美的な関係があるにすぎない、とされる。

ニーチェからすれば、自然法則の認識にしてからが、直観的「隠喩を土台にした、時間や空間や数の諸関係の模倣」にほかならない。どうしてカントのように、現象についてして唯一の絶対的な不変の学的認識が成立している、などという信仰が必要なのか。

結局のところ自然法則の認識にしても、生の保存に起因し、生の保持に快適な諸結果を生むように固定された因襲、偽装された慣習、そうしたものとしての隠喩、錯覚、虚偽、ということになろう。

ニーチェは以上のように、認識の「遠近法」という言葉はいまだ用いていないにしても、すでに、あらゆる真理を相対化し、真理と虚偽との間に区別を設けず、すべてのものが偽装であり、隠喩であり、錯覚であり、虚偽である、という見解に達している。

こうして彼はすでに、真偽の彼岸に立っている。唯一の絶対的な不変の認識、といったものは否定される。それは、そうしたものとして凝結ざれ固定された虚偽にほかならないもので
あることが、暴かれる。

ニーチェは、ゲーテの生と芸術とが示したような成熟を拒まれた人間、円熟を拒まれた人
間で、ある意味でその思想は初期においてほとんど出揃っていた、とする見方があるが、確かに、これまで検討してきた彼の思索についても、そのことが言える。

これまで見てきた真理についてのニーチェの見解は、権威あるものと見なされてきた真理の価値を、引きずり落す。真理の不動性、不変性に対して動揺を与え、われわれの認識が生のそのつどの立場との関係のものである、という見解に導く。

カントにおいて不変不動の認識と見なされたユークリッド幾何学とニュートン物理学はともに、その後ある意味で克服されざるをえなかった。認識の問題についてのそうした経緯の背後では、たとえ間接的であったにしても、このニーチェ的見解の出現も一つの意義をもつと言える。

ただしかし彼はいまの場合、知性の本質を、認識の本質を、生の保存という根源から解釈する。そしてその結果、真理とは偽装された慣習である、確固とした因襲であるといったように、道徳の成立についてと同一に近い解釈が、真理についても見うけられる。

 

2012年5月24日木曜日

数量化と視覚化と 感覚と感情と言葉と


◆五感の法則
・神経密度で並べると「①視覚 ②聴覚 ③味覚 ④嗅覚 ⑤触覚」の順
・人は豊かさと共に目、耳の満足から舌に移り最後は「匂いや肌触り」に移る
・視覚や聴覚を満足させる商品は大量生産が可能である(テレビや音楽等)
・味覚、嗅覚、触覚はコピーをして大量につくるには難しい
・特に「匂いや肌触り」にこだわるようになると「本物志向」になる
・匂いが一番本能に直通する、匂いをかぐとすぐに寄ってくる(鰻屋商法)
・上記の法則から相手の理性を無くすには
①単調なリズムの繰り返し②アルコール③セックス・・・で攻める
ref.→http://highenergy.tumblr.com/post/23612450125/62-php

言葉は感性(感覚や感情)や理性の一つのかたち(結晶)、手振りや身振りや声振りをより洗練、精緻化したもの。混沌より秩序を好む脳の性質なのだ(と思う)。絵画が視覚の言葉なら音楽は聴覚の言葉。ref→http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/04/blog-post_28.html

羊を数えるというのは素朴な感情としてなんとなく理解できます。(数の起源。同じもの似たものがたくさんない世界だったら数えようという気持ちな んか起きなかっただろう。単位性をもった同じ種類のものがたくさんあるのが生物の特徴。生物だから同じものが次々に再生産できる。 →http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/05/blog-post_24.html 工場で同じものをたくさん作るというのは生物として当たり前の行為なんだなと!ww)

が(というともはや吉幾三http://www.youtube.com/watch?v=LnHjtLEIdGQを 思い出す)、暑さ寒さを数えようなんて普通は思わない(と思う)。いったい全体、何でまた温度を数えようと思ったのか!?現在は長さや重さそして音も色も 数字で表現できる。そのうち匂いも味も痛みも悲しみも愛も恋も数字で表現するようになるのだろう。G(ギガ)ワロス!T(テラ)オソロシア!E(エクサ) ウラヤマシス!とか、その兆候だ!

不 均質なもの変わってしまうものすなわち感性的(感覚、分割できない、アナログ、ヒューリスティック、直感、暗黙知)なものを、均質なもの変わらないものす なわち理性的(言葉、分割できる、デジタル、ロジック、論理、形式知)なもので置き換えたい、そういった脳の性質があるのだ(と思う)。あいまいなものを ハッキリさせたい、不確実なものを確実なものにしたい、謎を謎のままにして放っておけない、といった欲望(不安)があるのだ(と思う)。

分かる、知る、にも二通りあって、

(1)パッと分かるという方法と(2)順を追って分かる方法がある。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=923010731&owner_id=3300442

『数量化革命』(A・W・クロスビー) P024 数量化と視覚化 - 新しい思考様式
ブリューゲルの『節制』は、1560年当時の西ヨーロッパの都市住民の心をとらえた事物を、いわばルネサンスの夢を寄せ集めた花香のような作品で ある。(中略)そのテーマとは、秩序を求める切実な欲求である。『節制』の登場人物の多くはなんらかの形で、現実世界の素材を均質な単位の集合体として、 すなわち数量として、視覚的に表現する作業に従事している。

http://www.print-collection.info/kohanga/bureghel.htm

『数量化革命』(A・W・クロスビー) P026 プラトンとアリストテレス - 古代の思考様式
プラトンとアリストテレスは今日の私たちより、人間の理性を尊重していた。だが、人間の五感については、自然の事物を正確に計量しうるものではな いとみなしていた。それゆえ、プラトンはこう述べている。すなわち、魂が五感を通じて何かを考察する場合には、「魂は肉体によって生成界に引き込まれ、進 むべき道を見失って混乱し、はてはめまいをおぼえる」と。(中略)

私たちは、二人のギリシャの哲人が想定していなかったカテゴリーが存在することを確信している。それは、合理的に計量できる程度に均質で、その結 果に基づいて平均値や中間値を計算できる事物というカテゴリーである。計量する際の人間の知覚は信頼できるのかという疑問に対しては、力織機や宇宙船や保 険統計表など、人間の知覚に対する信頼に基づいて人類が達成した数多の業績を指摘しよう。(中略)

人類がおさめた成功は偶然の所産に過ぎなかったのかもしれない--人間はしばしばこのよにして、つまり、うまくいくか否かという基準によって、おのれの能力を評価している。プラトンとアリストテレスほどの聡明な哲学者が、数量的に把握できる事物というカテゴリーの採用に逡巡したのは、なぜなのだろうか?(中略)

アリストテレスはこう述べている。すなわち、数学者はさまざまな次元を計量するに先立って、「あらゆる感覚的な性質を、たとえば重さと軽さとか、硬さとその反対の性質とか、さらに熱さと冷たさとか、その他の感覚的な反対的諸性質を剥ぎ捨てる」。(中略)

現代の人々は、重さや硬さや温度という性質も「その他の反対的諸性質(ghoti>善悪とか二項対立で捉えられる性質を指すと思われる)」 も、数量的に把握できると主張するだろう。こうした主張は、これらの性質そのものからしても、人間の精神に特有の性質からしても、絶対的に正しいとは言え ない。児童心理学者によれば、人間には独立して存在する個体を(クッキーが三つ、ボールが六個、豚が八頭というように)数える能力が先天的に備わっている ことが、幼児期においてすら認められるという。

ところが、重さや硬さという類の性質は、前述したように独立した量としては認識されない。これらは状態であって、独立して存在するものの集合体で はないうえに、しばしば流動的に変化する。それゆえ、これらの性質をあるがままの状態で数えることは不可能である。まず心の目で観察して、なんらかのルー ルに基づいて数量化し、しかる後にその量を数えるという手順を踏まなくてはならない。

こうした操作は、長さをはかる場合には容易に実行できる。(中略)だが、硬さや熱さ、速度や加速度となると--いったい、どうやって数量化すれば よいのだろうか?(中略)たとえば、14世紀のオックスフォード大学マートン・カレッジの学者たちは、ものの大きさだけでなく運動や光、熱さや色といった とらえどころのない性質も計量する価値があると考えるにいたるや、その考えをおしすすめ、さらに飛躍して、確実さや徳や優美さといった性質まで数量化しよ うと試みた。

たしかに、温度計が発明される以前に熱さを計量する方法を考え出せるのであれば、確実さや徳や優美さを数量化の対象から除外しなくてはならない理由はないだろう。


■関連リンク
・「味覚センサ」都甲・林 研究室
http://ultrabio.ed.kyushu-u.ac.jp/
・五感センサ(目次) -【クローズアップ・サイト】センサ - Tech-On!
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20081120/161524/?ST=sensor
・東原和成のホームページ 匂いの研究
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/biological-chemistry/touhara/touhara.html

人間にとって科学とは何か

遠い記憶を求めてシークエンス。mixi拙日記2008.01.31コピペ。

『人間にとって科学とは何か』(湯川秀樹・梅棹忠夫)を読む。この本はいいね。日常的なことばで非日常的なことが書かれているのがとてもいい。宗教、占い、科学などがなくならないのは、答えが欲しい、という人間の根元的希求なのだろう。

特に印象に残ったことば。(ことばは原文と同じではありません)

・納得の体系ということでいえば、宗教と似ている。

・科学の特徴は、ものごとを説明できないことが非常に多いこと。

・宗教はすべてを説明してくれる。未来も過去も、答えられないものがない。

・知の衝動、知的好奇心。ありとあらゆるものに関係を結ぶという関係衝動。

・宗教は安心の体系、科学は安心の体系を目指すが不安に満ちている。執念、勇気がいる。

・科学はあるかどうか分らない原理を探しているが、宗教は、はじめに原理がある。

・数の起源。同じもの似たものがたくさんない世界だったら数えようという気持ちなんか起きなかっただろう。単位性をもった同じ種類のものがたくさんあるのが生物の特徴。生物だから同じものが次々に再生産できる。

・言葉による思考の前段階、イメージによる思考。下意識から沸々沸いてくる人間の根元的なもの。生殖作用に似ている。

・価値は意味を持っている。科学には価値ということではカヴァーできない性質がある。価値というものはある種の目的論。目的と離れては、価値は意味を持たない。科学には目的がない面がある。

・科学の行き着く先は、好奇心なんか持つのがあかんのや、といった老子や荘子が理想としているところへゆくのかも知れない。

・最後は主観が勝つのじゃないかと思う。自分が思い込んでしまったら万事解決。

・くすりが宗教の代わりになるかならんか、まだわからんけれども(湯川)。涅槃薬というようなもので・・・(笑、梅棹)。