2022年3月8日火曜日

偏愛メモ 名義としてのパタン–唯名論 『認識とパタン』P79-80

eternityより移行
名義という日本語は便利な言葉で、大体、実体との適切な対応をあまり追求しないで、名前だけに重点を置いて事務を進めるというような時に用います。そういう意味では唯名論は名義主義といってもよいでしょう。前にも言いましたように、概念論(concepualism)と唯名論(nominalism)とは、実例において区別しにくい場合が多いので、ここでは便宜上一つにまとめてお話ししましょう。

唯名論者たち
唯名論の陣営とは、オッカムのウィリアム、ホッブス、スピノザなどがおります。「オッカムの剃刀」という言葉(なくてすむ余計な実在物は切り捨てろというモットー)がありますが、その「剃刀」の第一の犠牲になったのは、実念論者の「形相」であったといえましょう。実念論は者たちは人間の心は「普遍者」だけを捉えることができるとしたのですが、オッカムは特殊者を捉えることができるとしたのです。

一般的なものなどというものは、どこにもなく、一般性というものは心と特殊者(複数)との関係において見られるものであるとされます。この議論を押して行くと、同じ名前で呼ばれるものに何も共通なものがなくても良いことになるでしょうが、そこまでは明確に言い切っておりません。

英国のいわゆる経験論者ジョン・ロック、バークレー僧正、デイヴィッド・ヒューム等は概念論者とみなされたり、唯名論者と見なされたりしますが、そのどちらが正しいかの議論には大して意味はないでしょう。以上の三人の初めの一人と終わりの二人の間に境をたってる説もあります。

いずれにしても、この三人に共通の特徴は、一般的な観念とは特殊な観念を一般的に使ったに過ぎないと言った点です。一般的な机などというものはない、この机あの机という特定な観念を借りてそれで他の多くの机を意味しようとするにすぎないというわけです。

私自身が導入した「パラディグマティック・シンボル」(範例的象徴)という概念の先駆者をここに見ることができますが、このことは後の章でお話しすることにしましょう。

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