(1)(2009.11.28)真理とは、それが錯覚であることを忘却されてしまった錯覚である
とニ-チェは言う。しかし、その神経の刺激から発して、われわれ人間の外にある或る何らかの原因へと推論を進めるのは、すでに根拠の原理の誤った不当な適用の結果である。言葉は決して、人間の外の或る何らかの原因そのままの妥当な表現などではない。
なぜなら、言葉は、それを作る人間に対する事物の関係を表示しているだけであって、しかもその関係を表現するのに、きわめて大胆な隠喩が、つまり「跳び越し」が、援用されている。すなわち、一つの神経の刺激がまず形象に移される場合に、第一の隠喩が援用される。そして、この形象がさらに音に模造される場合に、第二の隠喩が援用される。
これらの隠喩ではそのたびごとに、全く別種の新しい領域の真只中への、それぞれの領域の完全な跳び越しが、行なわれる。だから、われわれは樹木とか、色彩とか、雪とか、花とかについて語る場合、そうした事物そのものについて何事かを知っていると信じているが、しかしわれわれが所有しているのは、根源的本質とは徹頭徹尾一致しないところの、事物の隠喩以外の何ものでもない。
(2)ディーツゲンは『人間の頭脳活動の本質』(小松攝郎訳・岩波文庫、1952 年)
我々は事物を見うるであろうか。否、我々は眼へ及ぼす事物の影響を見るだけである。我々は酢を味うのでなく酢の我々の舌に対する関係を味うのである。その結果が酸っぱいという感覚である。酢は舌に対してのみ酸っぱい感じを与え、鉄に対してはそれを溶かし、寒さに対しては固まり、熱に対しては流動体となる。そのように酢は、それが空間的・時間的に関係する客体が異るのに応じて、種々の作用をする。例外なしにすべての事物がそうであるように、酢は現象する。しかし、決して酢自体だけで現れるものではなく、常に他の諸現象と関係し、接触し、結合してのみ現れる。(3) 『差異と反復』P20
視覚が樹木を見るのでなく、樹木の見える所だけを見るように、思惟能力もまた客体そのものをでなく、客体の認識されうる精神的側面を受け入れるだけである(→)。 その結果として生まれる思想は、脳髄がある客体と結合して産んだ子供である。思想には一方における主観的思惟能力と他方における客体の精神的性質とが現れ る。すべての精神作用はある対象を前提とし、その対象が外に存在し、何らかの方法で感覚的に知覚され、或は見られ、聞かれ、嗅がれ、味われ、或は触れら れ、要するに経験される一つの対象から生ずるものである。(p.32~33)
頭脳は交換の器官であるが、心は、反復を愛する器官である。(たしかに、反復は頭脳にも関 わっている。しかし、それはまさに、反復が頭脳にとって恐怖でありパラドックスであるからだ。)ピユス・セルヴィアンは、正当にも二つの言語を区別した。 ひとつは、諸科学の言語であって、等号に支配され、どの項(辞項)も他の項によって代理されうるものである。他は、抒情的な言語であって、どの項も代理さ れえず、ただ反復されることによってしか可能でないものである。(4) Twitter / 宮台真司: なぜ村上春樹がスパゲッティがどうたらストッキングがこ ...
なぜ村上春樹がスパゲッティがどうたらストッキングがこうたらミニマルな自己関与モチーフを反復するのか。答えは〈世界〉と〈世界体験〉の差異化のためです。現象学(フッサール)と関係論・構造主義(ソシュール)は、 虫の目(ミクロ)と鳥の目(マクロ)と視点の違いはあれど、相対論として近親性がある。まるで兄弟のよう。
(5) 虫(むし)の目 鳥(とり)の目 魚(さかな)の目
「虫の目」は近いところで、複眼をつかって様々な角度から注意深く見る目のこと。「鳥の目」は虫では見えない広い範囲を、高いところから俯瞰(ふかん)する目のこと。そして「魚の目」とは水の流れや潮の満ち干を、つまり世の中の流れを敏感に感じる目のことです。
1主観認識(世界体験) 虫の目
2客観認識(世界) 鳥の目
3行動(世界への働きかけ) 魚の目
とみることもできる?!
(注)太字は、ghotiによる